人に利用される場、孤独、親切は脳に効く

「親切は人を幸せにし、心臓によく、老化を遅らせる。親切は人間関係を改善する。そしてどんどん拡散する」
「親切は脳に効く」(デイビッド・ハミルトン)

人から大事にされると、親切にされるとうれしい。それは待つだけでは中々起こらない。自分から親切にしたほうが、親切が返ってくる可能性が高くなる。「影響力の武器」という本で人には応酬の本能があるっぽく書いていたような。

自分から親切にするって、自分の持ち出しか。その人のためを思って自分は多少不愉快になったけど、その人が喜んでくれたら自分も嬉しくなったので、差し引きプラスっぽいの。どうしたら、人の喜びが自分の喜びになるのか。大事な人だったら。大事な人だって、初めは他人で、軽い親切からだんだん親切が大きくなっていってかけがえのない思い出ができる、大事な人になっているのだと思う。初めは小さな親切を周りにしていくこと。

他人がどうあれ、ある程度は自分の行動が決まっているのは自分の価値観、芯があるってことだ。右往左往しない、かえって楽な一面もあると思ってるっす。

関係についてボーと考えている。橋本治が「’89」で書いたテーマだから、30年遅れだけど。人生塞翁が馬で人知に限りがあり、人は正しさが分からない。なら、他人を批判する根拠はない。単純に価値観の問題で、その生き方がいいというのなら、自分としては受け入れるだけしかない。その人とどう付き合っていくのだけが問題っす。

相手にどれだけ尽くすことができるのか、逃げ場所を作ってあげられるのか。その場限りの感謝は孤独か。でもその場限りの感謝、関係でも自分としては得るものがあるのではないか。(その場限りになるか、未来はわからないもんだし、というのもあるし、種も播かなければ芽も出ない。相互の応酬がない関係は、負担感から相手も逃げ出したくなる事実はあるが)

利用されるだけかもしれない。と思えば孤独にもなる。でも自分が自ら望んだ、選択したことだと思えば、気も楽か。親切は脳に効く、という本を読みまして、関係するとはどういうことかじっと考えている。

人には正しいことは分からないと思っている。未来も当てることができないし、過去の解釈も歴史家が百花繚乱なのからして様々っす。未来を当てることは難しい。天災を当てることはもちろん、変化を当てることもできない。過去においてはそれはよく起こる事象だった。ただ、未来においてもそうとは限らない。正しさを保証するものはない。

あるめったに起こらないと思っていた出来事があった、それは、ただの例外なのか、新しい事象の起こり始めなのか、判断がつかない、自分には。というのも、大学時代に一回だけ、それは起こるはずのないことが起こったが理屈に合わないので、例外ではなく新しいことの起こりはじめだと、(根拠が薄弱なので)ほとんど神がかりで当てたことがある。本人的には確信があったが、他人を説得できる根拠ではなく、っした

ああ、社長の仕事、未来の方向性を当てるというのは、はたから見たらほとんど根拠なくで、重圧のかかることよのうと思ったもんだが、普通の人にはわからない根拠である。言われたとて分からない。こじつけのような。未来を当てること、未来を理解することはできないからして、人知には限りがあるのだなつか、過去のことも分からない。

と、私は大学時代、考えることは原因と結果だ、論理だと開眼した。いや、「原因と結果の法則」という自己啓発本は名作本らしいと後で知ったが(読んでない)それはともかく、考えるということは、何かと何かのつながりを作ることだと思った。そのつながりは、自分なりに自分の経験から紡ぎだしていいのだと。

で自分はAならBだったとする。でも他人ならAしたらCになるとしたら、その人々によって真実は違う。なぜって、他人は自分の思いもよらなかったDということを無意識に行っていたからだ、とか、分からないので、真実は永遠に交わらない。自分なりの世界を生きるしかない。他人の言うことをうのみにしても、自分の世界ではCは起こらない。また、同じCが起こるにしてもそのまた別の人ならDではなくEを行っていたから、とかもう無茶苦茶である。

ある一つの事象が起こるにしても、Dルート、Eルート、Fルート、様々な途中経過があり、様々な理由があると思う。他人がどのルートをたどったのか、見ていてもたくさんする行動の中でDが効果的だったのかのかは分からないし、まだDとFが相乗効果があったとか、実はVな行動はマイナスの効果があったとか、判断できないっす。

過去に起こったこと、何が起こったのか記載される選択眼も人の目だし、親知らずが痛んだから不機嫌だったのか、言わなければ分からない。Cが起こった理由も分からないし、人の行動の理由って身近な人も分からないし、歴史の因果関係ってわかるはずもない。未来も過去も分からない。自分の考えができたとて、他人の世界を否定することにはならない。

人知に正しさは判断がつかない。その人が根拠あると思ったら、自分には分からないけどそうなんだろう。自分に正しさが分からないのなら自分の考えにこだわる理由もなく受け入れても構わない。また、人生においてLするかMするかは一方しか選べないので、選べなかった選択が今より悪くなったか、良くなったか分からない。

結果が分からないのなら実行されなかった他人のしたかったことが自分の見落としでより良い結果になったことも十分ありうる。やらせてみて、一時は失敗したとして、次から成功につながることだってある。また、小さな失敗ぐらいだと思ったことは見逃したほうが、もしかしたら、自分の見落としで成功するかもしれないし。(自分の予想と違う行動をどれだけ受けれられる覚悟ができるか、そこからもしかしたら良いことが起こるかもしれない経営者の格っぽいの)

だったら別に自分の考えにこだわらなくてよいような気もする。一時はよくても、それがきっかけで大きな悪いことが起こるかも、あるいは一時悪くても大きな幸福が起こる人生塞翁が馬ってなことは全く人の考えの及ぶことでなし。これまた、あんまり自分の考えにこだわらなくてよいような気がする。

究極的には人を批判する正しい根拠はなく、価値観の相違、好みの問題っす。自分の考える正しさにこだわるんでなく、自分の正しさを他人に強制することによって他人との関係がどう変わっていくのか、正しさにこだわる人は正しさでなくて関係の変化、に焦点を当てても良いような気がするんだよね、僕は。孔子先生っぽく、人の言うことに右往左往する人は我がままというか自分の価値観押し出しても別に離れる人なら気にしなくても良いよと言っちゃうけど。

えと、私は何かするにしても一つの大きな理由もあるけど、するかしないかは(ア)と(イ)と(ウ)のメリットで(エ)と(オ)と(カ)のデメリットがあるの秤で決める。一つの大きな理由というより、いくつかの理由のバランス、差し引きで決めたりする。日野さんは(ア)のメリットを重視して、でも私は(エ)のデメリットのほうを重視する。

価値観の相違っす。そうしたいんなら、してみたら。その人の生きざま、自分の生きざま。究極的には価値観、好みの問題で、いいも悪いもない。否定することでもない。

自由であるってことは、人が自分の考えつかない素晴らしいことを言う自由でなくて、自分の理解できない不愉快なことをする自由があるってことで、それは自分が人の理解できないバカをする自由っす。自由って、同じことを、何かを強制されないということっす。自分も人には強制するようなことは言いたくないっす。

その人をその人として見ること、と、ものとしてみること。自分の見方で人を判断すること。自分の見えない人の理由を考えないこと。って、研修出たら、その人の存在を認めることって、上司の第一歩かったけど。人を尊重すること。

講演を聞きに行ったら、駐車場で余計な一言を言われた。右手、左手に駐車場がある施設の道路の交差点で、右のほうが停める場所が近かった。「左に行ってください」と言われたが、右が空いているようだったので「右はいかんですか」と聞くと、「そこ空いているけど(↑)」と乱暴に言われて、すぐ左手の植栽の陰に停められるところがあったのか、ではありますが、少々そんな言い方はないだろうとムカってきましたのであります。

まあ、自分の言い方乱暴だったか、乱暴に少しの悪意が返って、また乱暴さで返すのに悪意の大きさが増していくというか、人間、自分の評価は2割甘いというのか、正しさはあるかもしれないがそんな言い方はないだろ、で感情的にになっていく。

誰かがその乱暴さを受けても流す人がいるから、世は殺伐としていないのだろう。ありがたいことです。自分がその役目を果たすとはいいがたくもあるが、たまには引き受けても良いというか、不愉快さも我慢しなくては普段はいい目にあっているし、悪意を流せる余裕のありがたさよ。

余裕、を作ったら、多少の不愉快も流せる。すると、自分が不愉快さを増した行動をして相手に更に不愉快な目にさせられることもない、気がする。まあ、夫婦げんかして八つ当たりされたっポイ、自分ではどうしようもないこともあるけど、人が八つ当たりをためらうような気持の良さを持ちたいつか。人を尊重できない人は尊重もされにくいか、不愉快な目にあいやすいか、尊重されあうのは鶏と卵のような循環の気がするんでした。

不愉快、悪意を流せる余裕を作っていくにはどうしたらいいのか。1つは、一人の人から大きな安心感を得るんでなくて、大勢の人と少しづつ会話して少しの安心を集めて大きな自己肯定感を得ることと、もう一つは相手の良い面を意識すること、嫌いな面はあるにしろ、尊敬できる部分のほうを重く見て相手を尊敬すること、テクニック的には人格否定を避けていたら、相手が悪意を見せる回数は減るので、いい人と思い込めやすく正の循環を作りやすいこと、っすかな?

あと、人との関係づくりのきっかけは、他人が親切にしてくれるのを待つより、自分が親切にしたほうが、きっかけの数としては多くなるよね。相手の行動で自分の行動を決めるのは自然だけど、相手の行動に右往左往するともいえるかもで、人の行動と関係ない自分なりの価値観を持つってのも生きやすくなるんじゃね、持ち出し気にすんなっぽいのとか。

で、最近孤独を題材とする本が流行っているのか、心友、あこがれるのはわかる。気を遣わない仲。深い仲。でも僕は浅い関係を多く持つことを心掛けたい。浅い関係のどれかが、もしかしたら、深い関係の一歩かもしれないし。

連れ合いは実家が商売をしているので苦労していて、本当に困ったときは誰も助けてくれないという。でも、気持ちだけでも寄せてくれる人はいると思うんだよね、苦労していない僕は。映画「素晴らしき哉、人生!」で、大金をなくしたけれど、一人一人はわずかだけれど大勢の町の人たちの寄付でお金が集まったこと。あるいは元気玉のように(?)。

少しづつの厚意ってあると思う。少しづつの負担を大勢の人にしてもらうこと。一人の人に大きな負担をかけると、避けられるけど。自分も100万は出せないが10万なら出せる(?)気楽な関係っす。

深い関係は信頼が欲しいのか。確信が欲しいのか。そんなものはない。今が楽しければいいじゃないか。今が楽しい関係、ポリコレ的遠慮がある関係かもしれないけど、言いたいことも言えない、十全の承認は得られないかもしれないけど、少しづつ話す関係があるってことは少しづつ尊重される場があるってことっす。

尊重が少しづつでも集まれば大きな自己肯定感になるつか人の悪意を流せる大きな余裕になるつか。深い関係は自分の持ち出しも大きくなるのでハードルが高いが、浅い関係ならまずは大きな声であいさつしたら第一歩っす。会社の廊下ですれ違ったら黙って会釈っす。

挨拶して1回2回返事がなくとも、5回ぐらいしたら普通の人は反応してくれるようになります。次の段階として4回に1回天気の話でもできたら、2言話をすると私の承認欲求は3時間満たされます。ふう、今日もいい日だったで終われます。

というか、橋本治が「宗教なんて怖くない」で、関係には順番があると言っていたような、知り合いからいきなり愛を貰おうとするのは変だっぽいの。小さな恩のやり取りを、少しづつ大きなやり取りに替えていく。振り返ればかけがえのない思い出ができているのではないか。代わりにない人になっている、かもしれない。のきっかけとしても、広く浅い関係押しです。

人の否定は禁忌です。向こうもカチンとくる確実に。決めつけ、は自分の見えない要素D、E、Fのことを考えていない。大体、人は正しいと思う行動をしているのだ。理由はある。自分とは生き様が違うだけで。

どうしてそうしたのか、何か理由があるんだろう。相手に対して心を開いておくこと。相手がしゃべりやすい雰囲気を作っておくこと。理由をわざわざしゃべってくれたら、こっちも納得して相手のことを受け入れやすくなる。理解者になれるか、つか。人を批判する、否定する言葉から入らないだけで、周りも変わっていくのではないかつか。

受け入れた後で必要な突っ込み入れるけど、人に対して突っ込むではなく、行動の問題を切り離す。人の性格(の欠点)を非難するのではなく、人の性格は受け入れる。環境を変えて解決方法を提案する応用行動分析つか(よく知らないけど)。

言い訳するのも言い訳して相手がどう出るか分からなかったら、わざわざしてくれるものでもなし。自分との関係性において、どうせ付き合うのなら気持ちの良い関係でありたい。

というわけで、人との関係で我慢が多いのか、我慢が多いのが普通か、でも、人って自分が否定されなければ、他の人のことあんまり気にするほど暇でないよね。人をコントロールしたがる暇な人つか幼い人とは付き合わなくても、交流は恩のやり取りと割り切っている大人の人と付き合えばいい。実のところ、かなり、好き勝手言っていいんじゃないつか。批判してこられるような人にはその面を見せずに他の人と楽しむとか。

人の不愉快な部分も受け入れることって難しいようで簡単なような気もする。人にはいろいろあって、全部自分の好みの人はいないつか、好きな部分も不愉快な部分もある。完全な人はいない。

嫌いな部分もあるけど、好きな部分もあるしその人のことは好きというのはありではないかと思うすが(結婚の第一歩っす)。尊敬のできない人もいないと思うんだよね。欠点の反対は長所っす。のび太ぽく、だらしのない人は人に対して厳しく出ない優しさを持つかもしれない。いぎたない人は金に対する執着心は偉いと思うし。他人事なら。

遠くで幸せになってもらいたいと思った人が人生でいないわけでもないけど。ま、人間みんな尊敬できると思っておけばよろしい。したら、自分のものを分け与えることもあんまり気にしないで済むような?不愉快な目にあっても、悪意を受けても、尊敬できる部分を意識していれば、流すことのできる部分が大きくなるかもっす。

親切も気安くできるかもっす。親切にすることでもしかしたら一時の礼が返ってくるかもしれない。期待してはダメなんだけど。期待外れでがっかりすると、肯定感下がるっす。テレビで夫にだけ厳しいのはなぜかって相談をしてたけど、僕は恋した人には厳しくって、表面にこにこしていたけど、内心突っ込みまくりだったというか。

自分の理想を押し付けることは自分が生きづらくなる。ありのままを認めるのに、感情を動かさないこと。いいことが起こったらラッキー、悪いことは無視っス。忘れっぽいのは大事っす。1日ひとつ、いいこと日記をつけていくと、自分結構いいこと起きたんだなと読み返して、明るくもなれるつか。(人のいいとこ1日1つ見っけ日記もいいような)

自分がしたこと、相手にされたこと、厳密に返していこうとすると、小さな恩から大きな恩のやり取りと大きく育てることができない。厳密にいつも同じやり取りを続けるのは気苦労が苦しいし事実上無理っす。加えてお互いの負債が0になって時点で関係が清算されたとみることもできる。それで、自分から負担を少し大きくしていくことをしないと、向こうの厚意待ちになってしまうし、交流があるってのは貸し借りがないことではなくて、貸しがあっちに行ったりこっちに行ったりの状況だと思うのよね。

ちょっと自分の負担が大きいかなと思っても、向こうにも自分の認知できてない事情があるかもしれないし、ま、いっか。欠かさず関係を続けて行くと次に返してもらえるかもと広い心でいないと関係が切れてしまう。(私の場合、3回ぐらい持ち出しかなと思っても返してもらえてます)

で、ラッキーな思いを積み重ねて、自分の落ち着きが出てきたら、自己肯定感を育んだら、色んなことをしてみようと思うかもしれない。人生楽しくなるかもしれない。人に何かを与えるって大事なことだと思ってますと偉そうに。

移民、最近話題っす。日本語ボランティア、募集してます。うちの県では。入ってくる人は自分より優秀な人な気はしまくるけど、それでも慣れない環境だし、困ることはあるだろう。何かの手助けで、日本いいブームに乗っけてあげたら、裏社会の誘惑も踏みとどまれるかもしれない。

報道特集で「(外国人の多い浜松市は)政令指定都市の中で犯罪率が最低レベル。共生できれば脅威にはならない」と言われたとかです。捨て鉢になったら何でもできるけど、優しくされたら、守るべきものがあればそうそう悪いこともできないような気がします。

創竜伝で、中国人の黄大人が「戦前、司が良くしてくれたから日本人全てを悪いと思わずに済んだ」っぽいことを言っていましたが、それはフィクションにしろ、友好の懸け橋、なれる可能性ってあるかもだし。お互い悪意を投げあうより気持ちいいと思うっす。

ボランティア、色々あります。確かにボランティア前提でシステムを作る司令官は批判されるべきだとは思います。でも、個人の行動として出会いのきっかけに持ち出しをそんなに目くじら立てなくても、批判するより普段しないことをするワクワク感に乗ってみるのも良しつか。

勝間勝代曰くギブの5乗とありましたが、関係の作り初めには持ち出しが早くて、相手がいいことがしてくれたからの関係初めより、作れる関係は多くなるっす。相手次第と思うのはもちろんありっす。でも、多少のことがあってもぶれない自分の価値観を持つのは、人に右往左往させられるより生きやすくもなるっす。

人からの行動を待つより、自分にはコントロールできないことを望むより、自分が与える側になって関係を作っていったほうが気が楽っす、自分は。何らかの関係ができるってどういう重みがあるのか考えています。

いえ、自分は自分の価値観も他人の価値観(承認)も大事な程度問題派であり、子供が俳優になりたいと言い出したらどうしようか先の不安もしてしまっている小心者っすよん。

偉そうなことを言ったので、落としておくと、今朝、8か月ぶりに(サブ)銀行のキャッシュカード見つけました(口座の動きのないのは確認してました)。とか、昨日はスマホを家に忘れ、3日前は包丁で手を切り、10日前は家の鍵をなくして新しいの作ってます、な、上の空になりがちなバカセ(馬鹿な博士キャラ)とは僕のことです(キラッ

趣味は勉強一択の大学院進学にするか迷ってます。「いいね」くれたら、趣味はブログと踏みとどまるかもっす、と乞食ってます。

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