存在の肯定、ファシズム、未来

存在の肯定をしてくれるのを求めるのは、母を求めることのような気がする。そんなやつを求めるのは幼いが、男としては運命の女の夢を見るよね(汗)。あるいは不愉快な結果になったとして、相手に誠意があればまだ諦めもつく。悪意があるのなら、他にやりようがあったのではないか考えるし、こちらも折れないが。侮辱されて訴訟を起こす移民のイラン人の映画もあったような?相手を肯定することは無駄な争いを避ける可能性を高める。

ただ逆の立場で言うと、自分が不愉快な結果になった、大切なものを失った時に相手を許すかどうかの問題になったとき、相手に悪意があったとしたら、、、パレスチナ問題がおさまらないのはこれじゃないかと思っているし、広島云々も。正義が自分にあるとき「未来のため」に折れることは強制できないよねっつー話です。

応酬の気持ちで悪意を増幅させるのか、悪意をストップさせるのか、贈り物を返していくのか。傷は癒えない。でも、周りができることもあって、未来に喜びがあると思わせることっす。存在の肯定というか寄り添うことで、新しく、守るものができるのを手伝うことっす。過去は消せないけど、こだわる気持ちを薄れさせるつか。

悪意から癒されるのと、生まれる悪意と。どっちの数が多いかで世界の平和さが決まるとしたら、私は前者を増やす一助となりたい。人からの与えられるものは自分でコントロールできない。期待してもストレスがたまるだけ。与えるのは自分の意志で、自分でする選択は人生のコントロール感で生きる実感です。何も与えるものがないという状況もないっす。僅かながらでもできる範囲で多くの人が他人の肯定を行うっつーのが平和への道っす。達成されることはないにしろ、今 より良くはなるっしょというか、まあ悪意の発生に加担することもママありますが。


「自己肯定は無根拠であるに越したことはないのです。根拠のある自己肯定は、根拠が失われれば消え去ってしまう。

では、無根拠な自己肯定を手に入れる方法は何か。それは無根拠に他者の生を肯定することそのものだと思います。他者を肯定した分だけ、自分も肯定していいという考え方です。少なくとも、自分の生を無根拠に肯定するよりは他者の生を無根拠に肯定するほうが簡単です。誰だって、友人が「俺には生きる価値がない」と言っていれば「そんなことはないし、価値なんかなくたって生きていていい」と言いたくなるでしょう。それを「利用」するのです。
https://toyokeizai.net/articles/-/223457?page=4

「発達障害の僕が「うつの底」で体験した地獄」借金玉さんの文章をジーと考え続けている。

生きる価値があろうがなかろうが、人は生き続けるのだし、私は生きる意味を考えるのは阿保らしい派です。単に底を見たことがないだけでしょうけど。ただ、人の助けがなければ生きていけない人もいて、神谷美恵子の「生きがいについて」も宿題っす。どこで医療費を切るのか。間質性肺炎の父を持つと、まだ症状は軽いのだが、重くなると自腹で20万?の薬を使い続けるとか言われていると考える。父の退職金だから文句はないにしろ。みんながにこやかに暮らすには資源が資金が足りない。

資源に限りがあるのなら、どこかで選ばなければいけない。限りある資源の取り合いは、よりよさを求めるのなら欲望に限りはないか。マズローの欲求の5段階が気になっている。生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求 / 所属と愛の欲求 、承認の欲求、自己実現の欲求の順に欲求の段階が上がってくの。反論はあるらしいが、欲求の段階が上がるとラインは後退しないというのが重い。中国の人も豊かになって礼儀正しくなりつつあるのか。おいらも80年代生まれなので欲しいものがないといえばない。高級枕も欲しい、ガーゼの布団シーツも欲しいが、なくて困らないのか。その買うお金と引き換えにどれだけストレスのある仕事を引き受けねばならぬか考えてうんざりするほうです。

人と争わずに生きる道。差別して人とつながる道に対抗できないのか。政策としてはなくても、一人一人でできることはないのか。ある一定以上の富、初めから安全の欲求が満たされている人と以前の人は違うのか。皆が豊かになるまで待つのか。初めから安全の欲求が満たされていると、簡単に手放せることができる。スリルを味わいたくなる。日常が前提か、非日常が前提となるか。

僕の生涯のテーマは不条理っす。あらかじめあると思っていたものがないと周りを恨むかの就職氷河期世代ではあります。心理的なハードルをいかに下げるか。満足するとはどういうことか。何を求めるのか。

僕は病気の再発で、仕事をやめ、家族に捨てられる可能性がリアルに想像ができ、それでも楽しさを見つけることができるのか。解決策はいくつか見つけてあって、考えてもしょうがない、今から気分を予測できることでもないとも思うようになっているが。

まずは朝の散歩をすること。6時ごろの近所の散歩、すれ違う人に挨拶をしたら返してくれますの田舎です。転勤しているのでn=3っす。もっとも入院したら自由に外に出るともならないんだろうけど。加えて、夏の朝の5時ごろ、すっげー空気が澄んでるっす。自然の広大さに自分の悩みってちっぽけだなっぽく思えて元気になります。

そして毎日の予定表をつけること。できたできないの落差は感情を動かす。千里の道の一歩と思い込めれば、大きな理想が達成された世界と繋がっているのをリアルに想像出来れば少しの慰めにはなるのではないか。

人生に救いはあるのか。津波で戦争で家族を失ってもそれでも花の美しさに見とれることがあれば、ひと時の安らぎがあれば神はいるのではないかと思う。finalventさんは神にあったことがなければ神を信じなくて当然ぽく書かれたような、奇跡にあう体験がないのも人生よ、ではありますが。

私の人生は恵まれていると思う。大病を患ったが、仕事も持ち家族もできた。たぶんこれから想像していない悪いことが起こるんでしょう。でも、今までが良すぎたんだと思えば、しょうがないと割り切りもできやすい。まあ実際なったら苦しむだろうけどさ当然に。

誰の役にも立たない中で自己の存在を認めてもらうことはどれだけ救いになるのか。何かを与えられることは、与える側からしたら誰でもよかったのか。という時、逆に言えば与えるのは自分の意志かとも思う。自分の選択、自分で人生をコントロールしている感の生じる。何ができなくなっても選択をするということで自尊心が保たれそうなこともあり、予定表をつけた結果という選択は残しておきたいのっす。鬱の人には知らんがなだけど。一進一退を楽しめる余裕はあるんだか。

何もできなくなっても苦しさを浄化した人格を売る道はある。疲れた他人を肯定することっす。本当に自分は人から与えられるだけしかできないのか。何かを与えるという選択肢を選ぶことはできないのか。この時、様々な自分に合った方法でお金を稼ぐことのできる健常者がうらやましいが、うらやんだって変わらないしな。どんな状況にあっても生き方は選ぶことができるって「夜と霧」だったか。

自分で選択をすること、その場その場で最適な選択をすること。選択しても結果は、未来は見えない。妻はさほどこだわっていないの、出産時に夫がそばにいるの、実際いて何の役に立つのではなし。でも必死になって都合をつける夫を見て嬉しくなった斜め方向の効用もあるそうです。予想もしない結果が起きる。僕は考える前に動いちゃえ派であるんですが、この求人難で30超えて初めて正社員で働く子は努力でもどうにもならなさを感じている現在進行形のようでした。

というか、努力を続けることができるということ。場違いな努力、無駄な努力。正しい努力の道を知る知識はコネクションだし。「バクノビ」を読んで、英文の音読は学習効率悪いって、ああ僕必死にやってなっぽく。それで、状況が変わらないこともある。待つことも選択肢の一つだとは思う。それでもめげないこと。明るく在れること。私にできることをする選択肢は残されている。

のたえ苦しむのも人生さ。

病気しなかった人生を考えて、愚痴ったときがあった。でも大学受験に成功した人生の私って今の私か?SFでありそうだが、もしもの自分は結局、今の自分ではない。今の状況を受けいれ、そこからあがくしかない。

自己肯定感を得るには?人から肯定されること?何もないときは守るべきものがあること?自分から何かを与えること?生きがいがあるとは?一つやり切ったらあとは老後になるのかとは言えないような、進行形が人生っす。私なりの無根拠の自己肯定感は人生で選択することだ。結果はコントロールできないのなら、過程こそが人生だ。

現在進行形で自分で求めるものがあるのか。欲しい「物」はない世代です。欲望の5段階説、後戻りはないんだっけか。充実感とは?負荷がかかったほうが達成したとき大きいか。小さい目標を立ててそこで達成感を得るか(手帳に目標)できることからしていくこと。私のリソースは無限大でないこと。妥協することは悪ではないし。

差別を行っても仲間が欲しいか。私は仲間は得られないものだと思っているな。自分でコントロールできないものに尊厳を預けたくない。でもだからこそ与えられる場があれば必死になって守りたくもなるのか。得られない場があったからこそ貴重にも思うのか。どれだけ仲間のために尽くせるのか。

人生において感情の交流の場、ありのままでいられるのは理想でそんなものはない。母を求めるのと同じことだと思っている。全肯定は気持ち悪いといえるか。

先日、連れ合いに最近、僕が何か言うと「何(↑)」と不機嫌に返すことが多いの止めてくれないかっぽく。連れ合い曰く「朝から大声で早口で言われるとそうなる」そうです。ぼかーオタクだから早口というか、大声なのは付き合い始めて10年以上たつけど未だに連れ合いに嫌われてくない気持ちで緊張しているからっすよ~可愛いもんでしょ、勘弁してよ~直すように努力するけどさ。と自分を全て受け入れられないもんすが、連れ合いはラブです。好かない部分はあっても、好きな部分が大きい。

非難してきた相手を非難し返したら、断絶にもなって、直せないのは見ないふりをするのが夫婦の諦めってなもんでしょうか。いや、絶対的に許せないことって何でしょ。人を殺すのは取り返しのつかない。取り返しのつかないこととは?多少の不愉快のあるのが人生で逐一腹を立てないと前進もしないか。身近なところでは不愉快にさせられても怒るのは3回までは見逃したほうが風通しが良いと思ってます。

おいら、相方に注文付けたのは人生で3度目つか、たくさんの訂正点はあるって、相手の否定だしな。自分としてはこれだけはの点しかというか、折れることを期待したのだがって、連れ合いにとっておいらが大切でなかったからか(涙)。大切な点さえもすれ違いはある。でも連れ合いが好きであること。これからも付き合っていくこと。家庭を運営する目標を同じくする共通の目標があること。

理想の家庭像さえ一致しないのかというか、一緒に暮らしていくトラブルが楽しそうだと思ったっす。気持ちの持ち方が相方が好きなら、まあ多少の欠点は気にならないアバタもエクボで、ま、しょうがないの忘れっぽい精神です。感情で納得できていたら論理は結構どうでもいいっつか、揉めなきゃいいのか。

貸し借りが作れたら、長期の関係を作ることが期待出来たら負担があっても贈り物ももらえるし。思い通りにならなくてなんぼです。関係がないからあっさり非難もできるのか。ものには言い方もある。正義があったとしても後輩の指導には関係作りから始まって順序ってものある。順序が間違うと未来で良いように変わってくれることはない。

感情で納得したら許されるつか、僕も口調が柔らかいのでごまかしているんですが、書き出すとヤバメの文が多いです。バカ(という言葉は使いませんが)親しみを込めたバカとあざけるバカの口調の違いつか。でも口調でごまかすというか、マジで他意はないし。また、人それぞれに求めるものが違いまして、不愉快になるのもそれぞれでどれが地雷かはわかりません。

結婚どうよとか親しくない人には言わないが、親しい人にはどうして結婚しないのか聞いてみたりもする。言いたくないようだったら謝ってそれっきりというか。気を遣われるより聞かれたいと思っているのか聞かれたくないのか人それぞれで、刺さらないようにさりげなさを装って間合いはゆっくり詰めるっすというか。不愉快に思われても相殺できるぐらい点数稼いだ後でというか、不愉快だったらあとで他の部分で点数稼ぎする前提で。(が許されると思っている多数派はひどいだろうか)

良く知るということは親しくなることっす。一人一人と関係を作ることっす。でも、子供どうして作らないのかは聞けないす。僕は子ども至上主義なのでもしもの時の相手の気持ちを考えるとかける言葉がまだないのでつか、里子もらやーいいのにとは思うっすが。うちも二人ぐらい養育里親してみたいす。タブー視されるのは大事に思う人が多いからではありますが、人の大事なものはそれぞれで、勝手に決めつけてもその人の個性を見ていない、ないものとしていると思っているっす。知り合い程度には言いませんが。

人によってセクハラかどうかが決まるって、人と人とのそれまでの関係の蓄積で、納得できることではあります。最悪の事態でも収拾できる気配も読まねば、不愉快にさせる行動はとれないっす。恋に人生を賭けるも美し(?)。許される程度の踏み込み具合にして、一発アウトになりそうな不愉快さは与えないというか(あれ、ヒヨった?

人の逃げ場所は絶対に確保して付き合うこと。それ以上は理想の家庭生活はないし、全く不愉快さを与えないのも不可能です。雨降って地固まるか疎遠になるか、関係は変化する。一発アウトは触らない、それ以外で試行錯誤するのでアウトは明示しててね(?)

親密圏?においては、公の正しさではなく、近しい人との在り方で正しさが決まる。規範が二つつか、法と道徳?法で違反していないのに首にするのは僕は舛添さんの時から好かんです。アウトの線が人それぞれになるので、恣意的に人を陥れることが可能になるからです。大義名分があるからこそ、切ってはいけないっす。リベラリズムの多様性っす。あなたの意見には反対だがあなたが意見を言うのは守るの自由というか。

ファシズム(全体主義)の大義名分のまともさって刺さりますよ、一世を風靡した理由はあります(ユダヤ人云々は非難しやすい一部というかナチズムか)。反対意見の人を再起不能にする「当時の」正義というか、ファシズムから学ぶことがあるとするなら正義で人を殺すな、追い詰めるなと思ってます。大学の研究はどれが芽が出るか今の視点では分からない。未来の正しさを現在の目で選ぶのは不可能です。未来の道徳の可能性、不道徳な人にも生きる道を残しておくってのか芸術家を考えたらわかりやすいか?小倉秀夫さんのツイッター止まったのか(すいません、カッコつけても良くわかってないけど)。アンパンマンの、正義って人を助けようとしたら顔を与える、自分が傷つくものってジーと考えてます。

より良さはあるが、強制ではない部分で他に自分に良きことをしたら見逃すのもありと、一発アウトってあるかな?まあ自分としては公の理屈で人を非難するのはないかな。付き合う人が半径10mぐらいの共同体なんで、一度限りの人に合わないつか。連れ合いに馬鹿にされたらムカッとするかな。されてないからよく分からない(?)。変化する速度が同じ夫婦ってよく分からない自分の限界ではありますが。なあなあっす。

全肯定を、切って捨てれるのは私が母の愛を一身に受けてきたからで、未だ家庭に愛があると信じていられるから、また一部肯定される場をそれなりの数持っているからだ。(前回の少しの承認を多くの場で得ると大きな承認を得たのと効果は一緒)。もし、肯定をくれる人が一人きりなら、差別しても、自分の何を捨てても得ようとするかもしれない。

愛を知る自分は人を傷つけても欲しいと思わない分、愛に飢える人がいたら、愛というか存在の肯定を与えて落ち着かせることは自分の世界を住みやすくすることにもなるんだと思う。人に与えるという選択肢を自分で取ることは自分の肯定感につながらんやろか。で、人の居場所を作るのは回りまわって自分の安全っす。

ただ、自分が与える選択をするのはまだ気が楽で、自分が奪われる側に立った場合、相手を許すことができるのか。大阪大学の入試問題で合格なのに不合格にされて、怒りが収まらない。自分に正当性があるときに相手を許す気持ちになれるのか。未来のためにって、相手とこれから長期にわたって一緒に付き合う未来のメリットも見えなくては。てか、田舎だとHさんが参加するならその会には入らない、Hさん外せとか、感情がこじれるつか、最終的には感情のために生きてるんだし。

finalvetさんが、沖縄選挙で寄稿した文章、実はショックっした。「別の点から、あえて嫌われる言い方をするなら、沖縄県民がデニーさんを県知事に選ぶのは、その多くは、基地問題やイデオロギー的な政治問題の立ち位置からではないだろう。沖縄の長に立つ人は、沖縄の生活をお腹の底から知っている人であってほしい」

http://politas.jp/features/14/article/615  

選挙で人を選ぶにOさんは偉そうだからダメで選ばなかった人が身近にいますが、人柄で選ぶのかよ、でちょっと引いてました。政策じゃないのね。しかし、ベントさんの視点でも、信頼で選ぶか的に。選挙なんて高度なこと、庶民には判断が付きません。

こいつがダメならしょうがないと思えるかどうかって結構重い気がしてきました。信じるに足ることがあれば、感情で満足するなら理屈は割り引かれる。多少の不愉快があっても相殺できるというか流せるというか。

不愉快、不条理つか、人生先は読めないわけで、つらいことも起こるでしょう。そこで、相手に悪意があって結果が悪い行動があったらもちろん恨んでもしまいます。しかし動機が良かれとしてくれたなら、妙に責めづらいというか、結果の良さに確信が持てないことであっても、まあしょうがないと思えることもあるのではないか。全てが思い通りに行くわけでもない。逆に言うと相手に必要以上責められまいと思ったら誠意を見せておく必要があるし、誠意を見せてなかったら無駄に炎上してしまう案件はあるのではないか。

前回の「影響力武器」で人には応酬の気持ち(?)があるって書きました。悪意には悪意が大きくなって帰ってくるのなら、厚意には好意がとなるか。

自分がされたから少し大きく返す恩ではなく不愉快を返しあう仲にするのか。勝間勝代さんは誰かが悪口を言っていたら自分が話題を変える人になる悪口カッターみたいなものを言っていた気がします。自分が悪くされてもそれを許す、世間に流通する悪意を止める悪意カッターな一回りもあると思います。争いごとが減るんす、たぶん。(で、またボランティアを勧める)

まあ、いつもか良い顔はできないつか、他で尊厳を調達してこそというか。誰だったか、ツイッターで仕事圏と親密圏を分けるみたいなことが書かれていたような、冷徹に損得を考えないと自分自身がつぶれてしまう場面はあるでしょう。全ての人を救う資産はない。しかし、良い世界への小さな一歩というか、たまに良いことをして自分が傷つく。

自分にできる範囲で他人の存在を肯定することはできる。気持ちだけは僅かな助けにならないとするか、無視されるよりマシといえるかより傷つくかは分からないにしろ。でも差別が広がるのは防げるかもしれないし、それで救われる人もいるかもしれない。かもの連打っすが。借金玉さん的に言えば人を無根拠に肯定出来れば自分の存在も肯定できる効用もあると思うし。

と、究極的には赦しの問題ですね。広島に原爆が落とされ、自身には正義を主張する根拠がある。未来のために思った時に、相手がヘラヘラしていると腹も立つというか。自身が許せるかは分からない。でも、自分にそんなに許せないものがないときにできるのは、ひどいことをされた人に寄り添うことっすかね。新しく守るものができるのを手伝う。「未来」のために許すことができる気持ちになる手伝いをする。

人をモノとしてみないこと。数としてとらえない、一人ひとりの人生救われることが、大勢の人が幸せであるってことっす。一人の不幸が和らぐことは「世界平和」って断言できることでないようだけれど、やっぱりその一人一人の幸せが集まって世界平和なら、より平和になったってことだと思う。自分の幸せも世界平和の一部だから、自分を軽んじて人を重く思うこともできない。

でも、1000万の年収でも手取りは43万と言われると、満足できるってどういうことか。スーパーインフレが起こる可能性があり、中国とアメリカがケンカする可能性があり不幸な状況の想像はとどまることはない。日本でも100年前は女の子が生まれたら売ってしまわねば生活できなかった。より幸せな状況が想像できるのなら、より不幸せな状況も想像できる。現状に満足できる、感謝できる、厚意を与える余裕があるってどういうことか考えている。


前回はnoteを大勢の人に読んでもらいまして、ありがとうございました。スキさんきゅうです。一日数人しか訪れないブログをしてきたんで、ちょっくらビビりました。大学院が遠景になりましたが、しかし社に必要な人材がいないんだよな。5年計画?ともあれ、今後ともよろしくお願いします。一応、僕の個人的な意見で、反対意見も当然あるだろうの多様性の一部だと思ってますの注釈をば。

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