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カーディガンの記憶

シャツが好きだった、とおもう。
確かにそうだった、と記憶している。

久しぶりに袖を通したあの独特の冷たさは、確かに記憶にある。
そうだ、好きだなんて思う前の記憶だ。高校生の頃

朝、もうほとんどまどろんでいる中で、袖を通す白いシャツ
居眠りのせいでついてしまったペンの染みも、いまでも覚えている。(ペンを持ちながら頬杖をついて眠る方法については、よく研究した)

そして、あの冷たさも

あの冷たさを思い出すと、あのとき暮らしていた部屋のことも覚えている。
なぜだか気に入って買った牛の目覚まし時計は、朝起きられないので足元に設置されていた。
たしか、「乙女の祈り」という曲が流れるやつだ

あの頃の他に何が思い出せる、というわけではないが
あの冷たさは、一瞬でわたしを17とか18の頃に連れ去る
連れ去られてしまって、びっくりした。

最近はシャツなんか着なかったのに、
別に捨てるほどの何かでもないので、ずっとハンガーにひっかかってたそいつを手に取ったのは、
今思えば、カーディガンのせいだ。

今年、ついにカーディガンを新調した。

あれはもう、誰にもらったか覚えてないのだけれど
記憶が正しければ大学在学中、それも2年のときに譲り受けた気がする。
大きなメンズのカーディガンは、もう袖どころかおしりのあたりにも穴が空いている。
まあ袖は折ってしまうからあまり関係ないのだけれど、
それにしたって10年以上来ていれば寿命だろう。あと汚い。

昨年、このカーディガンは
ユニクロのメンズのMサイズだと発覚した。
発覚したときには、もう遅い季節だった
この大きなカーディガンは、手持ちのコートの下には着られない。
もう、冬が深くなっていた。

今年は買おう、と意気込んで2色新調した。
まだコートは新しくなっていないので、
コートがいらない今時分に着てしまおう、さっそくそうしよう、と思った。

そうしたら、なぜだかシャツだった。
買ったのは、グレイと薄いベージュのような色だから、何を着たってよかったのに
なんとなくシャツを選んでしまった。

ちがう、シャツが好きだったわけではない、と気づいたのは帰り際だった。

いや、確かに好きだった
でも厳密に言えば違う。

あのひとが、
むかしの恋人が好きだったのだ。
そういう、シンプルなものをしっかり着る人だった。
APCのデニムにシャツにカーディガン、ジャックパーセルを履くひとだった。

わたしは付き合い始めた当時、
いちごがらのワンピースを着たりしていたころだったのに
あんまりそういうのが好まれなくて、
わたしは着るものはたいがいなんでもよかったし、
彼の好きなものを好きになってしまったほうが、らくちんだった。
といえばそれまでだし、
いま思えば、いやな顔をされるほうが、めんどうだったんだろうと思う。

あるひとはわたしを、流されやすいと言ったけれど
恋人に限らず、好きな人になにか流されるのは、いまでも好きだと思う。
新しいものに触れるきっかけを、ささいな異次元とか異世界を、いまでも求めている。
どうせ気に入ったものしか、手元に残らないわけだし。

その後、やっぱりシャツは好きじゃなかったのか
ブラウスのほうが好きで、あの冷たさをともなうシャツの手持ちはいまでは少ない。

少ない、のだけれども。
ああ、きっとこれだ、と思った。
これが、原風景のように残っている。
もうずいぶん忘れた、だからなにかもう、イメージとかそういうものに近いのだけれど

「シャツにカーディガンで歩ける季節はいいね」

そんなこと言っていた、気がするのだ。
もうけっして、そんなことを言っていた彼の姿だとか記憶とかは、思い出せない。

でも、それについて「いいな」と思った自分のことは
ほんとうにもう、
もはや走馬灯のようだ
でも、たしかに、記憶に残っている。
そんな気がする。

気づいたら、シャツにカーディガンでも寒い季節が
もうやってきているのか、すぐそこまできていることに違いはない。

今年は、大きめのコートを買おう。
だぼだぼとカーディガンを着て、
歩くのは遅いかもしれないけれど、さっそうとした気分で歩こう。


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