伝光録 第四十五祖 芙蓉和尚

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【本則】芙蓉山道楷ふようさんどうかい和尚が投子義青とうすぎせい禅師に参じ、すなわち問う。「仏祖の言句は家常かじょう[1] の茶飯[2] のごとし。これを離れてほかに別に為人いにん[3] の処は有りや無しや」。投子禅師が曰く。「汝はえ[4] 。寰中かんちゅう[5] は天子のさく[6] 。天子はかえって[7] 、堯・舜・禹・湯[8] を借りるやまた無しや」。芙蓉和尚は、進語[9] せんと欲する。投子禅師は払子ほっす[10] をもって、芙蓉和尚の口を打って、曰く、「汝は意を発し[11] 来たし。早く三十棒[12] の分あり」。芙蓉和尚は、すなわち開悟かいご[13] する。


【機縁】芙蓉禅師のいみな[14] は道楷。ようより、閑静を喜んで、伊陽山に隠れる。後に京師[15] に遊んで、術臺じゅつだい寺に籍名しゃくめい[16] する。法華ほっけ[17] を試みて得度とくど[18] する。投子禅師と海会かいえ寺にえっ[19] し、すなわち問う。「仏祖の言句は・・・師はすなわち開悟する」。芙蓉和尚は、再拝して、すなわちその場から去り行く。すると投子禅師が曰く、「しばらく[20] 来たれ、闍梨じゃり[21] 」。芙蓉禅師は顧りみず[22] 。投子禅師が曰く、「汝は不疑の地[23] に到るや」。芙蓉禅師は、すなわち手をもって耳をおおう。

 後に芙蓉禅師は投子禅師のもとで典座てんぞ[24] となる。投子禅師が曰く、「厨務ちゅうむ[25] のこう[26] はすからず」。芙蓉禅師は答えて曰く、「不敢ふかん[27] 」。投子禅師が曰く、「かゆを煮るか、飯を蒸すか」。芙蓉禅師は答えて曰く、「人工にんく[28] は米をり[29] 、火をく。行者あんじゃ[30] は粥を煮、飯を蒸す」。投子禅師が曰く、「汝は何をかす」。芙蓉禅師は答えて曰く、「和尚よ、慈悲により、かれ[31] をして放閑ほうかん[32] しされ」。

 一日[33] 、芙蓉禅師は投子禅師にして菜園に遊ぶ[34] 。投子禅師は、?しゅじょう[35] を渡して、芙蓉禅師に与える。芙蓉禅師は、接得[36] して、すなわちしたがいて行く。投子禅師が曰く、「理[37] はまさに恁麼[38] なるべし」。芙蓉禅師は答えて曰く、「和尚[39] のために鞋[40] をかかげ、杖をく[41] 。また分外ぶんがい[42] となさず」。投子禅師が曰く、「同行[43] のあるあり」。芙蓉禅師は答えて曰く、「[44] 一人[45] は教えを受けず」。投子禅師は休し去る[46] 。

 晩に至って、投子禅師は芙蓉禅師に問う、「早来そうらい[47] の説話せったは、いまだ尽さず[48] 」。芙蓉禅師は答えて曰く、「和尚に請う、挙せよ[49] 」。投子禅師は曰く、「[50] には日が生じ、いぬ[51] には月が生ずる」。芙蓉禅師は、すなわち灯を点じて、来たる。投子禅師は曰く、「汝は上来じょうらい下去げきょ[52] 、そうに[53] 徒然つれづれ[54] ならず」。芙蓉禅師は答えて曰く、「和尚の左右[55] にあれば、理はまさにかくのごとし」。投子禅師は曰く、「奴兒ぬじ婢子ひし[56] 、誰が家の屋裏おくり[57] にかなからん[58] 」。芙蓉禅師は答えて曰く、「和尚は、歳が尊なり[59] 、他[60] を欠かば不可なり」。投子禅師は曰く、「恁麼に慇懃いんぎん[61] なることを得たり」。芙蓉禅師は答えて曰く、「恩[62] を報ずるに、分あり」。


【提唱】かくのごとく低細ていさい綿密に、一著子じゃくす[63] を明らめきたる。初め、仏祖の言句は、家常の茶飯のごとし。芙蓉禅師が、「これを離れて外に別に為人いにん[64] のところ有りやまた無しや」と問うこころは、今、尋常、行履あんり[65] の外に、さらに別に仏祖の示すところ有りや否やと。すこぶる所解[66] を呈するに似たり。しかるに投子禅師は曰く、「汝はえ。寰中かんちゅうは天子のさく。天子はかえって、堯・舜・禹・湯を借りるやまた無しや」と。実にこれ当今[67] の令を下すに、ついに昔の堯王舜王の威を借らず。唯一人[68] の慶[69] あるときは、万民おのずから[その慶を]こうむるのみなり。しかの如く、たとえ釈迦老師が出世[70] し、達磨大師が現在す[71] とも、人々は、他の力[72] を借るべからず。ただ自肯じこう自証じしょう[73] して、少分の相応[74] あり。

 ゆえに[75] 芙蓉禅師は、道理[76] を説き、滋味じみを付けん。なお、これ他を見る分あり。趣向[77] を免がれず。ゆえに進語せんとせしに、投子禅師は、払子をもって芙蓉禅師の口を払う。ここにもとより、このかた[78] 具足ぐそく[79] して、欠たることなきことを投子禅師は示すに、投子禅師は曰く、「汝は発意[80] しきたる。早く三十棒の分が有り」という。これは、[悟りを開いたという]証明にはあらず。一度の発意とは、「それ心とは如何なるものぞ」、「仏とはなにものぞ」と求めきたりしより、早くもおのれ[81] に背いて、他に向かいきたる。

 たとえ自ら説き得て、「全体あらわれたり」、「自然に明らかなり」といい、心と説き、性と説き、禅と説き、道と説かんとも、ことごとく趣向を免れず。もしこれ趣向のところあらば、早くも白雲はくうん万里ばんり[82] なり。己に迷うこと久しし。あに三十棒のみならんや。千生万劫せんしょうまんごう[83] 、汝を棒すとも、罪過から免れがたし。

 ゆえに[84] 芙蓉禅師は言下にすなはち開悟し、再拝してたちまち行く。芙蓉禅師はあえてこうべをめぐらさず、「疑わざるところにいたるや」との投子禅師からの問いに、芙蓉禅師は、「さらに何ぞ疑わざるところにいたるべきかあらん」と。芙蓉禅師は、早くも関山かんざん[85] と万里をへだてきたるゆえに、仏祖の言句もし耳に触れるとき、早くわが耳を汚しおはりぬ[86] 。千生万劫、[耳を]洗い、清めるとも清まりがたし。ゆえに手をもって耳を掩って、一言をも入れず。

 このところを仔細に芙蓉禅師は見得せしゆえに、禅師は典座てんぞのときも、すなはち曰く、「放閑ほうかん[87] 、他ならしむ」と。煮飯にはんする者にあらず、把菜はさいする者にあらず。ゆえに柴を運び、水を運ぶ、みな行者・人工にんく動著どうじゃ[88] なり。ついに典座の分上ぶんじょう[89] にあらず。絆を掛け、釜を清むる底、十二時中、間断なきに似たりといえども、ついに[本来の自己は]手を下す分なく、物に触れる理なし。ゆえに「他を放閑し去れ」と芙蓉禅師はいう。

 かくのごとく芙蓉禅師は見得しきたるといえども、投子禅師は芙蓉を精熟せしめんとして菜園に入るに、投子禅師は、?しゅじょうを渡し、芙蓉禅師に与える。芙蓉禅師は、接得してすなわち随行す。投子禅師は曰く、「理はまさに恁麼いんもなるべし」。これ?杖は、投子和尚が手づから持すべき物にあらず。物をげざる者あることを知らしむ。すなはち芙蓉禅師の悟りの眼は熟見しきたる。ゆえに芙蓉禅師はいう、「和尚のためにわらじを引っ提げ、杖をす。また分外となさず」。ここにおいて投子和尚は鞋履けいりに指を動じ、?杖を提げたるところを知れりといへども、なお挙手、動足を分外とせずと会得せし、少しき、その怪しみあり。

ゆへに投子禅師はこころみて、すなわち曰く、「同行の在るあり。従来ともに住して、名を知らざるのみにあらず、面を知らざる老漢なり。すなわちこれ同行なり。早く見得し来ること久しし」。ゆえに芙蓉禅師が曰く、「那一人は教えを受けず」と。

 しかれども、なお至らざるところあり。故いかんとなれば、すでに那一人ありて、挙手に伴なわず。動足に触れざることを知るとも、ただかくの如くあることをのみ知らば、なお疑わしきことあり。ゆえに投子禅師は、そのとき、「理いまだ尽さず」といい、芙蓉のもとを休し去る。すなはち晩にいたって、投子禅師は芙蓉禅師に問いて曰く、「早来そうらい[90] の説話せったは、いまだ尽さず[91] 」。この時に投子禅師は、「すでにあることを知りて、疑うべきにあらず。なんぞ至らざるところかあらん」というに、芙蓉禅師は曰く、「和尚に請う、挙し[92] きたれ」と。時に投子禅師は示して曰く、「[93] には日が生じ、いぬ[94] には月が生ずる」。ことに夜気は過ぎ去りて、星は移り、月は暗く、白雪しらゆき青山せいざんに横たわる[95] 。いまだ[大悟大徹は]あらはれず。しかれどもさらに不群ふぐん[96] の生ずる底の日あり。日勢は西山に沒して、万像の影はあらわれず、往来に人はなくして、路頭をわきまへずとも、またさらに空ぜざる底のことあり。ゆえに月が生ず。この田地はたとえ一片に打成して、余物をも交えず、他見なしといえども、自ずから霊霊??(れいれいこうこう)[97] のところあり。早くも暗昧あんまい[98] を照破す。ゆへに芙蓉禅師すなはち点灯しきたる。実に至ることは、細やかに、見ること明らかなり。ゆえに投子禅師は示して曰く、「汝は上来じょうらい下去げきょ[99] 、そうに[100] 徒然つれづれ[101] ならず」。すでにこのところに親しき時[102] は、実に十二時中も功夫の閑となる時節なし。ゆえに芙蓉禅師は曰く、「和尚の左右[103] にあれば、理はまさにかくのごとし」と。芙蓉禅師が悟りの世界を見きたること、細やかなりといへども、悟りの世界を妙用底みょうようてい[104] と会し[105] けるに似たり[106] 。ゆえに、投子禅師は重ねて試みんとて、曰く、「奴兒ぬじ婢子ひし[107] 、誰が家の屋裏おくり[108] にかなからん[109] 」と。すなわち「使いが来り、使いが去る。やっこ[110] 、誰が家にかなからん」と。芙蓉禅師は曰く、「和尚は、歳が尊なり[111] 、他[112] を欠かば不可なり」と。本来の自己は、すでに老老大大ろうろうだいだい[113] として、俗塵ぞくじんに混ぜざるものあり。本来の自己のたいは妙明にして、ついにあい、離れず。ゆえに芙蓉禅師はいう。「和尚は、歳が尊なり、他を欠かば不可なり」と。芙蓉禅師が恁麼いんもに[114] 本来の自己を見きたること、実に精到せいとう[115] ならずといふことなし。ゆえに投子禅師は曰く、「恁麼に慇懃いんぎん[116] なることを得たり」と。

 広大劫こう[117] よりこのかた[118] 擔来たんらいしもてゆき、しばらくもあい離れず、恩力をうけきたること多時なり。この恩を比せんとする。鉄圍てつち[119120] 大須弥だいしゅみも比することあたわず。この徳をくららぶるに四海九州も比することあたわず。その故はなんぞ。迷盧めいろ[121] ・日月・大海・江河は、ことごとく時うつりもてゆく。この老和尚[122] の恩はついに成敗[123] にあらず。故に時としてその恵みを被らざる時なし。いたずらに生じ徒に死して、一度尊顏を拝したてまつらざるは、ながく不孝の者として、久しく生死の海[124] に沈淪ちんりん[125] す。もし精細[126] にして、わずかに見得せば、千生万劫せんしょうまんごうの洪恩[127] が、一時に報じつくし終わりぬ。故に芙蓉禅師は曰く、「恩を報ずるに、ぶん[128] あり」と。芙蓉禅師がかくのごとく見きたること、精細なるによりて、往後おうごに[129] ある僧が問うた。「胡茄こか[130] の[131] 曲子きょくすは五音[132] に墮せず。韻は青霄せいしょう[133] を出ず。請う、師よ、吹唱すいしょうせよ」。師が曰く、「木鶏もっけい[134] は夜半に啼き、鉄鳳てっほう[135] は天明てんめい[136] に叫ぶ」。僧が曰く、「恁麼いんもならば[137] 、すなわち、一句の曲に千古の韻を含む。満堂の雲水はことごとく知音ちいん[138] なり」。師は曰く、「無舌の童児もよく継和けいわ[139] す」と。

 かくのごとく芙蓉禅師は純熟して、その眼をおおう青山なく、耳を洗う清泉なし[140] 。故に利[141] を見、名[142] を見ること、眼中にくずる[143] に似たり。色を見、声を聞くこと、石上に華をうえる[144] に似たり。故に足はついに門?(もんこん)[145] を越えず、誓って赴齋ふさい[146] せず。他[147] の来るをもいとわず、去るをもいとわず。その衆[148] は、時にしたがいて、多少さだまらず。日に食は、かゆ一盂[149] なり。粥を作って足らざるときは、ただ米湯のみなり。洞家の宗旨ここにいたりて繁興す。その見きたること、したしく保持を誤らざるによりて、先聖の付嘱ふしょく[150] を忘れず、古仏[151] の家訓かくん[152] を学しきたること、かくの如くなりしに、なお芙蓉和尚はう、「山僧さんぞう[153] は行業ぎょうごう[154] を取ることなくして、山門にしゅたることをかたじけなくす。に、坐ながら常住じょうじゅう[155] を費やして、とんに[156] 先聖の付嘱を忘れるべけんや。今者はすなわち古人の住持じゅうじ[157] たるの体例[158] にならって、乃至ないし[159] 、山僧である芙蓉が古聖の做処さしょ[160] を説著せつじゃく[161] するに至るごとに、すなわちおぼゆ、『身を容るるに、地は無きこと[162] 』を。慚愧ざんきす、後人こうじん[163] の軟弱なること」を。

 そもそもかたじけなくも、私・瑩山は九代[164] の法孫として、なまじえ[165] に宗風を唱え、二六時中[166] の行履あんり[167] は、後人こうじん標榜ひょうぼう[168] とするにたらず。四威儀いぎ[169] のうち、用心[170] はことごとくもって迂曲うきょく[171] なり。何の面目めんぼくありてか、三箇[172] 五箇の雲衲うんのう[173] に対し、一句半句を施説しせつ[174] することあらん。恥ずべし、恥ずべし。恐るべし、恐るべし。

 曩祖のうそ[175] の照覽[176] 、先聖の冥見みょうけん[177] は、しかもかくの如く[178] なりといえども、諸参学人は、かたじけなく芙蓉楷禅師の遠孫として、すでに永平門下の一族なり。すべからく子細に心地を明弁[179] して、低細[180] に用心し、一毫髮の名利の思いなく、一微塵の?おごまんの心なくして、したしく心術を定め、こまやかに身儀を整えて、到るべきに到り、きわむべきを究めて、一生参学の事を弁じ[181] 、曩祖属累ぞくるいの事を忘るることなくして、歩みを先聖に嗣ぎ、まなじりを古仏に交えて、たとえ末世の澆運げううん[182] なりといえども、市中に虎を見る[183] 分あるべし。もしくは笠下りゅうかに金を得る[184] 人あるべし。至祷しとう[185] 、至祷。しばらくへ、如何いかんが適来[186] の因縁[187] を挙著こじゃく[188] せん。

紅粉こうふん[189] をほどこせず、醜はあらわれ難し

自ら愛す、瑩明えいめい[190] なる玉骨ぎょこつ[191] はしょう[192]


◆注◆

[1] 家常:常日頃の家で
[2] 茶飯:「いただきます」、「ごちそうさま」、「おいしい」に限らず、「おはようございます」、「さようなら」、さらには「馬鹿者!」までも含む。
[3] 為人:人を救う言葉
[4] 道え:自分で答えてみなさい。
[5] 寰中:天子の治める地域。
[6] 勅:天子がくだす命令。
[7] 還って:大昔の権威に遡ること
[8] 堯・舜・禹・湯:いずれも伝説上の賢帝。他から力を借りることの比喩。
[9] 進語:答える。
[10] 払子:獣毛や麻などを束ね、それに柄をつけたもの。もと、インドで蚊などの虫や塵を払う具であったが、のち法具となり、中国の禅宗では僧がこれを振ることが説法の象徴となった。日本でも鎌倉時代以後用いられ、浄土真宗以外ではすべて法会や葬儀などの時の導師の装身具とする。
[11] 意を発し:頭で考えて答える。
[12] 三十棒:棒で[30] 回打たれること。罪への罰をあらわす。
[13] 開悟:悟りを開く。
[14] 諱:生前の実名。生前には口にすることをはばかった。
[15] 京師:都。ここでは北宋の開封。
[16] 籍名:籍(自分の居場所)を定める。
[17] 法華:法華経。ここでは法華経を理解しているかどうか試されること。
[18] 得度:僧侶になること。
[19] 謁:お目にかかる。
[20] 且く:とりあえず
[21] 闍梨:弟子を導く高僧。ここでは相手を呼び止めるための尊称として用いられている。
[22] 顧りみず:振り返らない。
[23] 不疑の地:悟りの境地に対して一点の疑問もないこと
[24] 典座:食事の準備し調理する人。
[25] 厨務:食事の準備し調理する務め。
[26] 勾:処理すること。
[27] 不敢:「どういたしまして」の意。謙遜の言葉。
[28] 人工:剃髪し、輿をかついだり、馬の口をとったり、また、薙刀などを持って供に立ったりする中間(ちゅうげん)のような者。力者法師。
[29] 淘り:米を水ですすいで洗う。
[30] 行者:禅宗で、まだ得度しないで、寺のうちにあって諸役に給仕する者。中国では有髪、日本では主として剃髪ていはつした。また、得度・未得度に関係なく、寺院に属して種々の雑用に使われる給仕の少年
[31] 他:表面的には典坐の手伝いをする人工や行者をさす。しかし実際には、悟りを得ている自らの本質。
[32] 放閑:解放すること。表面的には彼らをこの台所仕事から解放すること。しかし実際には、悟りを得ている自らの本質は何もやっておりませんという回答になっている。
[33] 一日:あるとき
[34] 遊ぶ:散歩をする。
[35] ?杖:僧が行脚の時に用いる杖。また、戒める時や上堂して法を説く時の具に用いる
[36] 接得:自分の身近に引きよせること。
[37] 理:当たり前のこと。ここでは杖を渡されればそれを受け取り、そのまま付き従っていくこと。
[38] 恁麼:そのとおり
[39] 和尚:表面的には投子禅師のことだが、同時に悟っている自らの本質をさしている。
[40] 鞋:わらを編んで作ったはきもの。わらじ
[41] 挈く:手にさげる
[42] 分外:自己を超えた、自分の分以外のもの。実際には、杖を持つことは、悟っている自分の本質の働きによるもので、それ以外のなにものでもないということ。
[43] 同行:一緒に行くもの。悟っている自分の本質は、影も形もないにもかかわらず、同時に活動していることをさす。
[44] 那:「那箇なこ」=あれ、その、「那辺なへん」=そこ。ここでは「その」
[45] 一人:悟っている自分の本質
[46] 休し去る:芙蓉禅師の回答に対して何も答えず黙ってその場から去った。
[47] 早来:先程来の。
[48] 尽さず:終わっていない。
[49] 挙せよ:続きを言ってみてください。
[50] 卯:十二支のうさぎ。午前[5] -[7] 時。
[51] 戌:十二支のいぬ。午後[7] -[9] 時
[52] 上来、下去:こちらにやって来るときも、こちらから去っていくときも。日常における一挙手一投足。
[53] 総に:すべてにおいて
[54] 徒然:目的がないこと
[55] 左右:侍者として仕えること。
[56] 奴兒、婢子:家の召使い、使用人、女中。
[57] 屋裏:家の中
[58] なからん:必ずいる。
[59] 尊なり:世話が必要な老齢であること。
[60] 他:左右、奴兒、婢子などの世話係。実際には悟っている自分の本質。
[61] 慇懃:礼儀正しいこと。ご親切な忠告ありがとうという意味。
[62] 恩:投子禅師に仕えさせてもらっていること
[63] 那一著子:悟っている自分の本質。
[64] 為人:獣ではなく人として、人たらしめること。悟りの世界を徹見すること。
[65] 尋常、行履:日常の一挙手一投足。
[66] 所解:悟りの世界を徹見したことを示す見解
[67] 当今:現在の天子
[68] 唯一人:天子
[69] 慶:よい賜物。
[70] 出世:世に出ること。
[71] 現在す:今ここにいること
[72] 他の力:釈迦や達磨大師を頼みとすること。
[73] 自肯自証:大悟大徹し、悟ったことに、自分で納得し、自分で間違いないとわかること
[74] 少分の相応:悟っている自分の本質に対応するもの
[75] ゆえに:ここでは「にもかかわらず」。
[76] 道理:しっかりとした悟りを開いていないために、通常の論理を使うこと。
[77] 趣向:面白味が出るように構想すること。通常の論理を使ってなんとか回答すること。
[78] このかた:こちらのほう。自分自分のこと
[79] 具足:自分の本来の姿を悟るために、その本来の姿が自分自身に十分に備わっていること
[80] 発意:悟りの体験からではなく、理性的な論理で考え出すこと。
[81] 己:自己本来の面目
[82] 白雲万里:青空のように澄み渡っているのではなく、白い雲がどこまでも続き、はっきりと見えないこと。思慮分別で悟りの世界のあり方を判断してしまうこと。
[83] 千生万劫:千回生まれ変わり、[1] 万のもっとも長い時間の単位が経過すること
[84] ゆえに:ここでは「とはいえ」。
[85] 関山:ふるさとの四方をとりまく山。転じて、故郷。ここでは日常の論理。
[86] 汚しおはりぬ:汚れきってしまう。悟りの世界は、仏祖の言葉であっても、表現しきれるものではないため。
[87] 放閑:→注[32]
[88] 動著:動きのあらわれ
[89] 分上:それとして本来与えられたもの。
[90] 早来:先程来の。
[91] 尽さず:終わっていない。
[92] 挙せよ:続きを言ってみてください。
[93] 卯:十二支のうさぎ。午前[5] -[7] 時。
[94] 戌:十二支のいぬ。午後[7] -[9] 時
[95] 横たわる:雪が山の斜面に降り積もる様子をあらわしている。
[96] 不群:仲間や集団に属さない。悟りの眼を持っていない人々とは違うということ。
[97] 霊霊??:霊妙で光輝くさま
[98] 暗昧:暗く明らかでないこと
[99] 上来、下去:こちらにやって来るときも、こちらから去っていくときも。日常における一挙手一投足。
[100] 総に:すべてにおいて
[101] 徒然:目的がないこと
[102] 親しき時:大悟大徹の境地に到達しているとき
[103] 左右:侍者として仕えること。
[104] 妙用底:霊妙なはたらきをするところのもの。
[105] 会し:理解する
[106] 似たり:ようだ。
[107] 奴兒、婢子:家の召使い、使用人、女中。
[108] 屋裏:家の中
[109] なからん:必ずいる。
[110] 奴:本来の自己をさす。本来の自己は誰であれ、いつもすでにいるということ。
[111] 尊なり:世話が必要な老齢であること。
[112] 他:左右、奴兒、婢子などの世話係。実際には悟っている自分の本質。
[113] 老老大大:老い切ったさま。
[114] 恁麼に:このように
[115] 精到:きわめて精確で、ゆきとどいていること
[116] 慇懃:礼儀正しいこと。ご親切な忠告ありがとうという意味。
[117] 広大劫:とてつもなく長い年月。劫は、:人が方一由旬(四十里)の大石を薄衣で百年に一度払い、石は摩滅しても終わらない長い時間といい、また、方四十里の城にケシを満たして、百年に一度、一粒ずつとり去りケシはなくなっても終わらない長い時間。●
[118] 擔来:下僕などが何かを担ってこちらにやってくること。ここでは本来の自己がたえず自分とともにいること。
[119] 鉄圍:=鉄囲山。世界の中心にある須弥山(しゅみせん)をめぐる九山八海の最も外側にある鉄でできた山。鉄輪囲山。金剛山(こんごうせん)
[120] 大須弥:世界の中心にある最も高い山
[121] 迷盧=蘇迷盧(そめいろ)梵Sumeruの音写で、須弥山(しゅみせん)のこと。
[122] 老和尚:表面上は投子義青禅師をさすが、実際には本来の自己。
[123] 成敗:ものごとが成り立ったり、消滅したりすることで、諸行無常の現象世界を表す言葉。?
[124] 生死の海:輪廻転生
[125] 沈淪:深く沈むこと
[126] 精細:細部にまで注意が行き届いていること。ここでしっかりと丁寧に修行を行うこと
[127] 洪恩:大きな恩恵。
[128] 分:役割。ここでは芙蓉禅師が果たす役割。
[129] 往後に:後に
[130] 胡茄:中国古代北方民族の胡人が吹いたという葦の葉で作った笛
[131] 曲子:小歌,小曲
[132] 五音:五つの音からなる音階。代表的な形は、ドレミソラの[5] 音からなるもの
[133] 青霄:青空。 澄んだ空
[134] 木鶏:本物の雄鶏ではなく、木製の鶏。しかも「朝啼き」ではない。
[135] 鉄鳳:中国で、想像上の瑞鳥ずいちょうの雄。これも本物ではなく鉄製。
[136] 天明:夜明け。 明けがた。
[137] 恁麼ならば:そういうことならば
[138] 知音:音楽をわかっている。互いの真の自己を理解している。
[139] 継和:音程を崩さずに歌うこと。
[140] 清泉なし:本来の自己を徹見しているので、他の人の教えを聞く必要がなくなっている。
[141] 利:この世での自己利益
[142] 名:この世での自己の名声
[143] 著る:身につける
[144] 栽る:本来の自己を徹見しているので、自己が消えて、色を見るや声を聞くといった通常の二元対立の見解を脱し、ただ一つになっている。二元対立の見解をとることは、ちょうど植物を土ではなく石に植えて育てるようなこと。
[145] 門?:寺の門。ここでは寺の領内。
[146] 赴斎:僧が信者に食事に招かれて出かけて行くこと。
[147] 他:他の寺などから修行僧が訪れること
[148] 衆:修行僧
[149] 盂:わん、はち。
[150] 付嘱:たのみまかせること
[151] 古仏:(先徳・祖師など)悟りを開いた僧の尊称。
[152] 家訓:随時の説法をいう
[153] 山僧:僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。 (ぎょうごう)をか‐くん【】
禅林で、随時の説法をいう
[154] 行業:身(しん)・口(く)・意(い)の所作。また、一般に仏道の修行
[155] 常住:寺僧が一寺に定住して行脚をしないこと。
[156] 頓に:急に
[157] 住持: 世に止まって教えをたもつこと。 仏法をたもちまもること。
[158] 体例:物事の全般とその細則
[159] 乃至 : などなどなど。
[160] 做処:修行のあり方と悟りのまなこ
[161] 説著:(「著」は「説」を強めるために添えたもの) 説くこと。
[162] 身を容るるに、 地は無きこと : 表面上は、自分のような者が今の住職の地位についているのがおこがましいということ。実際には、悟りの世界から見えてくる、本来の自己のあり方。
[163] 後人:芙蓉和尚よりも後の時代の修行者たちで、瑩山禅師自身をも含めている。
[164] 九代:芙蓉から数えて瑩山禅師にいたるまで[8] 人おり、 瑩山禅師は[9] 代目にあたる。
[165] なまじえ: なまじい。 よせばよいのに。
[166] 二六時中 : 《昔、 [1] 日 [12] 刻であったところから》終日
[167] 行履:禅僧の日常一切の起居動作のこと。
[168] 標榜: 善行をほめたたえ、その事実を記した札を立てて世に示すこと。
[169] 四威儀: ぎょう ・住・坐・臥 (が)の四つの作法にかなっているもの。 戒律にかなった立ち居ふるまい
[170] 用心:修行の心がけ
[171] 迂曲:性質がひねくれて素直でないこと。また、そのさま。
[172] 箇: 人。 瑩山禅師のもとに訪れる修行僧
[173] 雲衲:粗末な袈裟(衲袈裟)をまとって諸方を遍歴する修行僧
[174] 施説: 有用な句や言葉を使って、 悟りの世界を説くこと
[175] ?祖: 先祖。祖先。 達磨大師のこと。
[176] 照覧 : あきらかに見ること。 はっきりと見ること。
[177] 冥見 : 目には見えないが、 つねに見ていること。ここでは本来の自己を徹見していること。
[178] かくの如く:非常に深いレベルで本来の自己を徹見している。
[179] 明弁: (「礼記-中庸」 の 「慎思二之、明辨二之」から) あきらかにわきまえること。大悟徹底
[180] 低細: 手抜かりなく丁寧に物事をすること。
[181] 弁じ : わきまえる
[182] 澆運: 運が向いていない。 薄運
[183] 市中に虎を見る: 三人目の人が虎を見たといえば、虎がそこにいたことを信じるという故事から、信じがたいことの証人になるということ。 ここでは得難き悟りを得ること。
[184] 笠下に金を得る : 本来ないと思われる場所に宝を見つけること。
[185] 至祷:究極の祈り。心の底から祈ってやまない
[186] 適来: 「先ほどの」という禅語
[187] 因縁:仏道修行を励ますもの
[188] 挙著:コメントする
[189] 紅粉:化粧
[190] 瑩明:明らかで、すきとおっていること。
[191] 玉骨:玉は翡翠ひすい のことで不滅の象徴。朽ちない骨とは本来の自己。
[192] 粧:美しくままでいること。



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