ユートピアなはずのあつ森にモヤモヤした理由

今年のあたまに、はじめて「あつまれどうぶつの森」をプレイした。わたしはシムシティみたいなゲームにめっちゃハマるタイプなので、あつ森もハマると確信していた。ところが、わくわくしたのも束の間、島の開拓の序盤で「この無人島を発展させる仕組みって、現実世界に起こっている搾取の構造と同じよね?」と思ってしまった。そう思ったら、貝をひろっても、木を揺らしても、可愛さより疑問のほうが勝ちはじめ、頭の中がざわざわでいっぱいになり、およそ1ヶ月でプレイするのをやめた。「あつ森すっごく楽しいから絶対やったほうがいいよ!」という知人のアドバイスがむなしく思い出される。三十路をすぎて、あらゆることにざわざわ、モヤモヤするようになってしまったが、まさかこのゲームにまでモヤつくとは思っていなかった。心残りではあるが、この際、モヤモヤの理由をしっかり分析してみようと思う。

このゲームは、プレイヤーが無一文で無人島に降り立ち、巨額のローンを組んで自分の家を入手するところからスタートする。プレイヤーは島に自生している果物や雑草を採取して、たぬきちに売って資本に変えることで、島の資本主義導入の担い手になる。たぬきちのレシピ通りに道具を作れるようになると、昆虫や魚を狩れるようになる。そうやって、無人島の生き物をたぬきちに売って、お金をつくって、たぬきちの売る商品を買い、さらにローンを組む。しかも、お金のやり取りはいかなる場合もたぬきちが価格を決める。そのうち、たぬきちから博物館建設とかインフラ整備といった公共事業のために物資を集めるようにいわれる。マイホームのローン返済という個人的なことのために走り回っていたのに、いつのまにか島の価値を上げて住人を増やしたがるたぬきちのために、ボランティアで労働している。そもそもたぬきちは、フレンドリーな役場の人間(タヌキ)然とした佇まいでいるが、たんなるビジネスパーソン(タヌキ)である。たぬきちにとって、島の資源も住人も資本なのだ。

また、植物や魚を資本に換えるシステムは、資本主義と環境破壊の関係についても考えずにはいられない。もちろんゲームのなかでは、乱獲や伐採をつづけても動植物が枯渇することはないし、異常気象や食糧危機も起きない。一切の「死」が存在しないから、あつ森はユートピアなゲームとして認識され、「成長あるのみ」の資本主義の条件が整う世界で、自分の家が発展していく線的な過程を楽しめる。しかし、命の有限性がない世界は、おなじ空間で関わり合っているもの同士(たとえば人間と魚とか、蜂と地形とか、森林と大気とか、なんでも)の関わりがまるっと消失している世界だともいえる。また、増えていく近隣住人とのあいだにも、物質的な交流はあるが、精神的なそれは生まれない。だから、たぬきちに交渉するために住民が集会をするようなことはできない。他者との関わり合いが絶たれた空間のなかで、何をやってもたぬきちだけが無限に儲ける不均衡なシステムの住人になって、管理される。わたしにとってあつ森とは、そういうゲームだった。この島は理想郷だろうか?いや、間違えなく資本主義の成れの果てに生まれるディストピアだ。

さて、そんなディストピアなあつ森は、資本主義システムのなかでわたしたちが失くしていくあるものを如実に映し出している。それは、自律的な創造力だ。昨年の自粛期間中、テレビで芸能人があつ森をプレイしてる様子をみていて、子供の頃のお人形遊びを思い出した。小さかったわたしは人形そのものへの愛着よりも、どちらかというと、人形の物質生活の拡充に熱意を燃やしていた。わたしのリカちゃんはリカちゃん専用の家財道具を持っていなかったので、頭を使わないとままごと遊びができなかったのだ。結果として、わたしはお下がりのレゴブロックや積み木なんかに、「これはお皿」「これはテーブル」というかんじでオリジナルの役割を与えて、遊びを成立させた。ゴレンジャーとかアニメの合間に流れるCMのリカちゃんハウスみたいな、完璧な暮らしがいつか欲しいな、と夢見ながら。あつ森なら、あの時の未消化の欲求が叶えられそうな気がしていた。

ところが実際にあつ森をプレイして、理想のアイテムが販売されるのを待つしかないという状況を経験すると、あの時の遊びのほうがよっぽど自由で楽しかったと思った。不足を自分の想像力で補いながら、手持ちのおもちゃを応用して遊ぶ環境は、言い換えれば、自分なりになにかを作り出す余白のあるものだった。そういう余白としての「あそび」があつ森にはない。一応DIYというアクションがあるものの、レシピ通りの材料を揃えないと何もできず、「これとこれを組み合わせれば椅子になるんじゃね?」というような、わたしたちが本来持っている創造性は排除される。哲学者のエリザベス・グロスは、ベルクソンを引用しながら、自由度とはすなわち不確定性の度合だと言っている。リカちゃんはいるのに、専用の玩具はないという不足に対して、積み木やレゴブロックのもつ不確定性は、わたしだけのユニークな遊び(たとえばリカとぬいぐるみとシルバニアファミリーとレゴ人形が家族になるという、ビバ・多様性な遊び)を可能にしてくれた。あつ森には、不足はあっても、不確定性はない。予定調和かつトップダウンな世界なのだ。

そもそも、あつ森のDIYはDIYではない。DIYは、素人が自分の頭で考えて、手に入る範囲のモノを応用しながら、必要なものを作る行為だ。それは、どこの商業施設にも同じ店が入り、均質なモノしか買えない現代の資本主義社会において、自分の物質生活を企業から奪還する、ある種の草の根運動みたいな側面がある。以前、ポルトガルの陶芸工房にアーティストとして滞在したとき、長い時間をかけて仕上がりの色の実験をしている女性がいた。彼女は、このままIKEAの食器だけで人々が暮らすようになったら(ヨーロッパはIKEAの普及率がとても高い)陶器のもつ多様な色やテクスチャが忘れられてしまうでのは、と思って食器を作りはじめたそうだ。企業からすれば、消費者がこういった想像力を持ってDIYをはじめると商売にならないので、誰も目覚めることのないように、手を替え品を替え、オプションを提示し続ける。あつ森の世界観は、これに近い。事実、プレイヤーは毎日の儀式のように、たぬきち商店を覗いてるはずだ。自発的に何か作れない世界は絶望的だ。

あつ森について調べていると、資本主義や搾取の観点でこのゲームを論じている記事がすぐみつかった。たとえばこれこれ。英語の掲示板でも、たぬきちはキャピタリスト(資本主義者)というあだ名でよばれていたりする。ただ、そういうことをする人が必ずしもアンチなわけではない。わたしはゲームを途中で投げ出したが、自分の問題意識とあつ森への愛情を切り分けて、解決策をDIYしたプレイヤーもいる。たとえば、イギリスに住む13歳の男の子は、reditをつかってアイテムのやりとりを貨幣を介さずに行うシステムを作った。このアイテムあげます!という投稿に対して欲しい人が返信をする。返信者が多い場合は抽選機能をつかい、当選者は投稿者の島へ行ってアイテムをもらう。いかなる場合でもチップやお礼は厳禁だ。この共産主義的なカウンターが実際になにを意味するのか、参加したことのない私には分からないが、気に入らないことを変えながら、ゲームを続けるという姿勢、それから賛同するフォロワーの多さは興味深いと思った。

さて、こうして書いているあいだに、わたしがなんでこんなにあつ森にモヤモヤしたか、だんだんわかってきた。要するに、政治的な議論が絶えない毎日のなかで、ゲームの中では現実逃避したかったのに、あつ森があからさまに政治的だったから困惑したのだ。4、5年前から主にZ世代の流行として「エンパシー(共感)」という言葉がキーワードになっていると感じていたが、パンデミックがおこったことで「安心感」や「癒し」が切実に求められるようになった。しかし、それが具体的に何を意味するかは、人によって大きく異なる。自分にとってのユートピアがどんな場所なのか、考えてみるいい機会なのかもしれない。

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