手がかかる中学生の私を最後まで面倒見てくれたh先生 へ

手がかかる中学生の私を最後まで面倒見てくれたh先生 へ

 こんにちは。先日はお会いできてうれしかったです。お変わりない姿を見ることができ、安心しました。

 先生と出会ったのは、中学二年生の春。当時の担任が、先生でした。

 先生はいつでも同じような服を着ていて、体育の先生だからそれもジャージみたいなよく分からない服で、姿だけは誰もが覚えてしまうような方でした。でも関わっていく内に、おかしなのは服装だけではないことが分かってきました。

 先生は、私たち生徒と対等に関わろうとしてくださる先生でした。良くも悪くも忖度なく、平等に、そしてパーソナルスペースという概念を知らないような図々しさで懐に飛び込んでくるような先生でした。そんな先生の姿は、保護者には頼もしく見えたと思います。暴れる生徒を身体を張って抑えられる力も持っているのですから。他の先生が目を離したくなるようなことも、積極的に関わっていくのですから。

 でも、生徒の中には、当然ながら先生を疎ましく思う子たちも沢山いました。それまでまるで無秩序だったこの場所に、秩序をもたらそうと先生が躍起だったので。私はそうは思っていなかったけれど、別のタイミングで、一度だけ先生を疎ましく感じたことがあります。

 それは中学二年生の夏ごろでした。部活内で人間関係の問題が起こり、私と私の友人三人の計四人が、部活内から迫害されたときです。迫害とは言っても、上級生も含めて、部活の外では私たちに手も足も出せないような子たちばかりでした。だから余計に腹が立ったのです。吹奏楽部でしたから、心を合わせて演奏しなくてはなりません。コンクールまで残り一か月ですし。でも、部活全体が私たちを認めようとせず、無実の罪まで被せられる始末。流石にやる気も何もなくなりました。

 そして、私たちはコンクールに出ないことを決めたのです。顧問の先生には何度も相談したけれど、大して話も聞かずに私たちを放置。その腹いせでもありました。中学生の頃の私たちは、外へ向かうエネルギーが有り余っていたのです。自己を主張するための反抗、まさにその通りだったと思います。

 「コンクールが終わるまで、先輩が引退するまで部活には出ません。」そう顧問に告げに行くと、顧問の先生は踵を返したように問題を解決しようと必死になりました。どうしてそうなったのか、続けることは出来ないのか。でも、聞いてくれなかったのはそっちですから、という態度で、今度は顧問の先生の呼びかけを無視して、その場を去りました。

 そうして私たちのことは、学年会議にかけられたのです。それを知ったのは翌日でした。h先生が私に言うのです。「今から時間取れる?」そうして連れていかれた会議室。広いその場所で、二人きりの面談が始まりました。とは言え、当時の私は先生はみんな役立たずくらいのことを思っていましたから、最悪の態度で、ほぼ顧問と部活への悪口みたいな話し方をしていたと思います。相談しているのではなく、文句のはけ口くらいにしか思っていませんでした。

 そんな私の話を最後まで真剣に聴いていた先生。一通り話し終わると、少しずつ先生が話し始めました。両親はこのことを知っているのか、友だちみんなの意見が一致しているのか、私は本当にそれでいいのか。先生には似合わない、あまりにも穏やかな語り口でした。

 そうして翌日、私たちは会議室に呼び出し。それも放課後で、私以外の三人のお母様も一緒に。どうしてうちの母はいないのかと言うと、当時部活をしばらく休むという主張すらまともに受け入れてくれなかった母ですから。それに、h先生と敵対したくない、という気持ちもあったみたいです。その頃の母とのいがみ合いは、人生で最初で最後の物だったと思います。今は大の仲良しですから。

 呼び出された会議室には、予告通り、学年団の全ての先生方と顧問の先生がいました。つまり、h先生も。おかしいですよね、生徒4人を囲って大の大人が8人体制です。友人の一人もお怒りモードで、開口早々喧嘩腰でした。「先生多くないですか?私たちたったの4人ですけど」とがってますね。本当、中学生って感じです。

 その中でも、話の中心はh先生でした。顧問でもなんでもないし、担任持ってるのも私だけだし。私だって、h先生と争う理由はありません。顧問とだけでいいんです。それなのに、当の顧問は何も語らず、全てh先生に任せきり。そんな態度にもいらいらは募っていました。

 結局その話し合いの中で分かったことは、h先生の人柄の良さ、真剣さだけでした。何も解決にもならず、無駄な時間だったかも知れません。でもそれ以来、私はh先生を信頼するようになりました。

 そのときは、ご迷惑をおかけしてごめんなさい。でも、先生に救われました。先生がいなかったら、もっと泥沼になっていたと思います。あの話し合いの場を設けて下さったのも先生だと思いますし、その行動力と真剣さに救われました。ありがとうございます。

 そんなこんなで、学級委員や代議員を務めていたこともあり、その後クラスでもh先生との関係は良好に続きました。関わることが多かったのも理由の一つでしょう。体育祭では、リレーのアンカーが一位で帰ってきた瞬間に私を、まるで赤ん坊のように高い高いしましたね。合唱祭では、泣きじゃくる私を思いっきり抱きしめてくれましたね。卒業式では、どこよりも目立つ格好で参加し、どこよりも泣いてくれましたね。

 毎日必ず更新される学級だより。時代を超えた手書きのそれも、私の毎日の楽しみでした。特に達筆でもないのに率先して装飾を作る先生。それも、頼まれてもいないのに、気づくと、先生が来てからたったの二年間で、見渡す限り先生色の学校になっていました。先生たちも子どもたちも、先生の虜でした。

 腰痛もちでしょっちゅう遅刻だの早退だのしていた私に、学校の公衆電話ではなく先生の携帯、それもらくらくスマホで電話をかけさせてくれたこと、私は一生忘れません。上級生の卒業式では、腰痛で長時間座っていることも辛かった私を、こっそり連絡して帰宅させてくれたことも忘れません。いつでも、私や私の家族を大切にしてくれたこと、忘れません。

 そんな先生に二年間も面倒を見て貰えて、卒業後も気にかけて貰えて、本当に幸せです。私も、先生のようにデリカシーのない先生になれるかは分からないけれど、少しでも近づけるように頑張ります。だから、先生もずっと元気いっぱいの、おかしな先生でいてくださいね。

2021年3月30日 はのと

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