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東京462人、緊急事態宣言再発令の妥当性

8月7日、東京都では新たに462人のCOVID-19(SARS-CoV2)感染者が確認された。

これをうけ、「重症化率が低位だからといって安心できない」「緊急事態宣言の解除は失敗、再発令を」との言説が一部で高まっている。これらの意見に妥当性が認められるのか検証したい。

そもそもの論点はなにか

COVID-19が話題に登ってから半年、未だにこの点を明らめぬままに進む議論も散見されるため、改めてCOVID-19(延いては感染症一般)に関する論点を整理したい。

結論から述べると、COVID-19の問題点は「死ぬかどうか」に集約される。これには、①物理的に死ぬか②経済的に死ぬかの2つの意味が内包される。

-①物理的に死ぬか

そもそも、なぜCOVID-19(新規感染症)が問題になるか、本を正せばそれは「生物的な死への恐怖」にあると言えよう。仮にCOVID-19の"致死率"および"重篤な後遺症が残る可能性"が風邪や季節性インフルエンザ程度であれば今般のようなショックには至らなかっただろう。我々一般人レベルでは、感染症について「死なない」「不可逆な不便が残らない」ことが重要なのだ。

個人がCOVID-19で物理的に死ぬ確率をはかる指標として最も簡便なのは「感染率」×「致死率」だろう。このうち、「感染率」は「人口」と「感染者数」の関数なので、表題のような連日の感染者数が話題に登るものと思われる。「重症化率」が「致死率」の、「感染者の増加率」が「感染者数」の先行指標として用いられることもある。

-②経済的に死ぬか

①と同様に重要なのが経済への影響だ。仮にCOVID-19が「死なない」「不可逆な不便が残らない」病だったとしても、政府や社会が過剰に反応して経済が過度に停滞した場合にこの点が長期的な問題として残る。

経済には「今だけ我慢」という論理は通用しない。いったん経済の輪転を停止、あるいは速度を低下させると、それを復興させるのに莫大な時間とコストが生じる。

COVID-19で経済が停滞した結果として、倒産する企業が増えたり、多くの人が職にあぶれたり、生活水準が低下したりする(=経済的に死ぬ)ような事態にならぬことが重要と言える。

「経済が死ぬ」プロセスの一例を挙げておく。ひとつの企業の売上が減少、生産を落とし込むとすると、その受注会社、またその孫請けも売上が減少し、生産を落とすことになる。この過程で大小さまざまなリストラが行われ、最悪の場合には倒産する企業も発生する。職にあぶれた元労働者は消費を控え、さらに各企業の売上は減少する。このスパイラルに一度入れば、抜け出すために多額の税金が投入されることとなる(公共事業、公的資金注入、金融政策にともなう利払費上昇)。
※ここでは一般生活レベルの話として経済停滞の問題点を離職者の急増としたが、実際には各種市場の急変による国、企業、個人のデフォルト(バンクラプシー)等も考えられる

現在の日本の状況

以上の論点を踏まえ、COVID-19に関する現在の日本の状況を整理したい。

日本における現在のCOVID-19の致死率は2-3%となっている。個人がCOVID-19で死ぬ確率を非常に簡便に算出すると、致死率3%×感染率0.035%(=累計感染者数4.4万人/総人口1.26億人)=約0.001%となる。

飽くまで現時点での数値かつ大雑把な計算だが、現在の日本では約10万分の1の確率でCOVID-19に罹患して死ぬことになる。

※詳細に検討する場合には個人の年齢や持病の有無、また重篤な後遺症が残ったケース等を考慮する必要がある

この数値が今後急激に上昇していくというのであればこれは問題だが、致死率、重症化率に大きな変動がなく新規感染者数の増加率が低下するなか、そのようなエビデンスは見当たらない。

※当然、ここに挙げたような数値はモニタリングの必要があり、これらが大きく上昇するようであれば緊急事態宣言等の政策対応の妥当性は高まる

数値の大小についてここでは議論しないが、このCOVID-19の「死の確率」をさらに低下させるために緊急事態宣言を再発令し、経済全体の流れを抑えてまで感染者数を抑える必要があるだろうか。「人の命は何よりも重い」というのは正論だが、その代償として国家の生産を落とし、倒産件数を増やし、就業人口を減じ、庶民の生活水準を切り下げることの意味を本当に理解しているだろうか。功利主義的に言えば、その行為は、緊急事態宣言再発令によって失われる効用以上の価値があるのだろうか。現状、私にはそうは思えない。

ここからは政治の話だ。今般の日本の政策対応が完璧だったかと問われれば疑問が残る点も多いが、現在の感染状況と経済指標にだけ焦点を絞れば、他国と比較して評価されるべき点も多い。これを無視して政府に対する批判が高まり、世論に負ける形で非合理な選択が行われることが懸念される。すでに地方自治体ではこのようなポピュリズム的傾向がみられる。目の前の痛みが少ない「大衆に迎合した政策」ばかりを選択していると、本質を見誤る可能性がある。

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