ロシア正教会(ウラジオ日記31)

スーパーを見つけるとロッカーに荷物を入れ、大きく伸びをした。さあ観光だ。さっき見かけた教会の方に向かってみる。

ウラジオストクでも二度、教会を訪れた。一度目はバス停を求めてさまよっていた時とても綺麗な鐘の音が聞こえてきて、そちらを向くと大きな教会があった。歩いて近づくと、複数の鐘が複雑なリズムで鳴らされている。教会でイメージする大きな鐘楼とは違い、大小さまざまな鐘が独特なリズムを紡ぎだしている。その音色はとても美しく、思わず聞きほれてしまう。それはミサか何かを知らせる鐘のようで、中で神父らしき人がお香を撒いているのが見える。気になって近づいていくと、シスターに止められる。半ズボンを履いていると入れないみたいだ。鐘の音とお香の匂い、その建築も含めて、ロシア正教は西方教会とは違う歴史と信仰を歩んできたのだろうことが知れる。

ミサに行ってみたいと日曜の朝に長ズボンを履いて出かけた。ホステルのそばの教会に入ってみると、燭台とイコンがいくつも並んでいる。敬虔な信徒たちが十字を切って祈りを捧げている。ひとつひとつの意匠がすばらしくじっくり見ていると、後ろの椅子に腰掛けるおばあさんの姿が増えていく。何かを待っているようだ。たぶんミサが始まるのだろう。教会の奥から歌声が響く。賛美歌ではなく聖歌。それはコーランの朗誦にも似ている気がしたが、どうなのだろう。自分が聞いたことのあるメロディに近づけたいだけなのかもしれない。神父が出てきて、お香を信徒たちに振り撒きながら堂内を一周する。日本のお寺でお香を頭に振り仰ぐ姿と重なる。それからも歌は続く。多分、何か物語をなぞっているのだろう。神父たちの移動と、歌声が続く。しばらく見とれていたが退屈が勝ってくる。そろそろ終わりかなと思っても中々終わらない。かなり長い時間いたから、終わる間際に教会を出て最後だけ見逃すのも口惜しい。あと少しで終わるなら最後まで見届けたい。そうやって「後五分くらいかな?」を十回くらい繰り返してやっとミサが終わる。おそらく一時間半くらい、ミサを見ていた。それが二度目だ。

ウスリースクの教会の前に立つと、十字を切って中に入る。信仰心も持たないものが十字を切っていいものかわからないが、教会に入る礼儀かと考えた。入り口で少しためらう。なんだか少し入りづらい。何かこわさを感じるのだ。多分畏怖に近い。その教会はロシア革命の時、町で唯一壊されずに残された教会だ。だからそこには古くから重ねられてきた信仰の跡が残っていて、それが怖れを抱かせるのだろうか。ウスリースクの方が、ウラジオストクよりも歴史の古い町だと言うし。置かれているイコンはやはりすばらしいものだったが、なんだかこわくなって早々に出た。

もうひとつ教会を見かけた。さっきの話に沿えば、それは上の教会に比べずっと新しいものの筈だ。恐らく100年も経っていない。それでもやはり怖れを感じる。観光地として提供されているウラジオストクの教会と違い、こちらは町の人とのつながりがより堅固なのかもしれない。よそ者が入る場所ではない。信仰者以外の者が訪ねる隙間はそこにないのだ。

日本でも怖れを感じて入れなかった神社がある。それは夜のことだ。葉山で道を歩いていると鳥居が目に入る。奥にどんな神社があるのだろうと気になって近づいたのだが、鳥居より先に足を踏み出せなかった。とても恐ろしい気配をそこに感じた。それは結界に近いのかもしれない。神社は夜になると理が逆転して魔のものがはびこるという説があるらしい。それが強力であれば日中の神のご利益も強力であると誰かに聞いた。本当のところは定かではないが、恐怖であれ畏怖であれ、怖れを感じさせるような何かにはそれなりの力がありそうだ。

いやな気持ちにはならないだろうと、丁寧に十字を切る。ご加護なんて言葉は望みすぎな気がしたから、悪いようにはしないでねと、無事の帰国を願う。

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