本を読むなら電車の中で(ウラジオ日記38)

ロシアの本というのは長いイメージだ。ぜんぶ、ドストエフスキーの所為かもしれない。それともめちゃくちゃ本を読む国民性なのだろうか。公園で見かけた本棚はその証明なのかもしれなかった。誰もベンチに座って本を読む人はいなかったけれど、本棚には色んな人が持ってきたであろう本がたくさんに詰まっていた。

公園の他にも本棚を見かけたそれは電車だ。電車の中に本棚がある。日本みたいに満員になることもないから、それは邪魔にはならずにそこに佇んでいる。移動中の読書というのが一番はかどる気がする。自分の部屋で読みふけるよりもはるかに集中できる。公園やカフェもいいが、移動中が一番はかどる。バスや飛行機じゃなく、電車。バスのゆれ方は文字をふるえさせて読みにくくするし、飛行機は楽しすぎて読書どころじゃない。電車がいい、目の端に過ぎていく景色が心地いい。ゆれ方もバスと違って、細かくないからゆりカゴみたいにリラックスできる。その所為で眠ってしまうのだ。日本の満員電車というのは本当に異常なのだと思う。ぼくは生まれが埼京線沿いだったから、あまりに慣れてしまったけれど。満員電車では本も読めやしない。それから大学に向かう電車に乗り換えても中々座れない。座れても疲れた体では読書もできずに、眠ってしまって起きると大学を通り過ぎている。もう授業も間に合わないから、電車を降りると戻らずに鎌倉を散歩したりした。

そんなことを思い出した。日本でも移動式の図書館というのはある。鎌倉にもたしかあったような。でもあれは図書館が近くにないところへと走るだけで、移動しながら読めるわけではない。だからこの移動する本棚は画期的だなと思った。車内を見渡すとほとんどの人は本を読んでいない。スマホを見たり、何もせずぼーっとしたりしている。

黒っぽい木の棚の中には本がいっぱいに収められている。辞書や医学書みたいなのもある。ここで読むか?と思いながらしばらく眺める。日本語があると思って手に取るとそれは漢字というだけで中国語の書物だった。立地的に中国人も多いウラジオストクで、中国語の本があるのは不思議ではない。手に取ると、席に座り本をひらく。深夜特急で沢木耕太郎が中国語の本を読んでかっこつけていたのを思い出す。何か漢詩の本を読んでいた気がする。これは漢詩ですらない。無学な私にはどっちも同じようなものだが。

でも海外にいると、よく洋書を買ったりする。読めるような気がするのだ。それで実際意外と読めるのだけれど、最後まで読んだことはない。旅行中には読み終わらず、日本に帰ってしまえばもう開くことはないからだ。

知っている漢字だけを目に入れていく。
 光
     白
   湖
頭の中で水面がきらめく。

本を読みに山手線に行くのもいいかもしれない。止まらない山手線でぐるぐると日がな本を読み、うとうとしてきたら眠るのだ。文章の中に「ラーメン」とか「カレー」とか「ビール」とか書いてあるだけで、すぐに欲しくなる。単純な性格。そしたら降りて食べに行けばいい。楽しそうだから今度の休みにやってみよう。夜が更けたら、本を閉じて遊びに行ったっていい。環状線は自由だ。

サポート頂けると励みになります。