見出し画像

排水溝に埋まった彼

親友と夕日を見に行こうと6時ごろ近所を歩き始めた。私の住む近所は外国人が多く住むお金持ちエリアと、路上生活者も多い、いわばスラムの狭間にある。


最近は開発が急速に進み、お金持ちエリアはさらに道路が舗装され、貧しい者は追い出されるようにスラムに居場所を求め、格差とカオスが入り混じっている。


まだ手付かずの泥だらけの道を私はいつものようにひょいひょいと避けながら、新しく舗装されたばかりのコンクリートの道を選んで歩き続ける。


歩き始めて10分ほど経っただろうか。


路上に、ぽっかりと1メートルほどの穴が空いた壊れかけの排水溝に下半身が埋まり座っている男を見つけた。足は排水溝の中にあり、上半身だけが見えている状態で、排水溝の奥はよく見えない。


車やバイクが騒がしく通るこの道で車道すれすれで座っているなんて、なんて危なっかしいのだろう。そんなことを思いながら夕日を見逃すまいと、私はよくある路上の一場面を後にした。


11時、長い散歩を終え、路上にある小さなお茶屋さんで一杯30円のお茶を飲みにきた。もう深夜だというのに、この通りの活気が消えることはない。


通行人やストリートフードを売る若者をぼんやりと見ながら、ふと、排水溝に埋まる彼がまだそこにいるのに気づいた。


よく見ると彼は顔に包帯を巻き、ぶっきらぼうに半分に切られたペットボトルを手に持ち、物乞いをしている。 


私は親友とお茶を飲みながら、彼のことを静かに見ていた。すると、バイクに乗ったウガンダ人二人組が彼を指を刺さして笑いはじめた。雑音で何を言っているのかは聞き取れないけれど、彼のことを嘲笑しているのは明らかだった。


軽蔑する行動に怒りが湧きはじめると同時に、誰1人、彼を目にして止まった人はいないことに気づいた。排水溝から上半身だけが見えその異様な姿に、明らかに誰もが気づくはずだが、無視する通行人を見ながら、実はそれが自分だということに気づいた。


私はこの国で賢く傷つかずに上手に生きていくために、たくさんのことを学んだ。そのうちの一つが気にかけないことだった。


カンパラには数え切れないほどの路上生活者がいる。バイクに乗っている時、信号で止まれば10人近くのストリートチルドレンに囲まれ、洋服を引っ張られながら引き摺り下ろされそうになったこともある。路上にいる人に声をかけようとしたら、「攻撃される可能性があるからやめておきな」と現地人にアドバイスされたこともある。


この国で何年も住んでいる外国人や現地人がストリートチルドレンにショックを受ける姿なんて見たことないように、人々は、当たり前のように人が倒れ助けを求める姿を、当たり前のように無視して過ごしている。


関心がないとか、善良な心がないとかではなく、自分の身と心を守るためだと学んだ。どこに行っても物乞いがいて、お腹を空かせた子供がいるこの国で、毎回彼らのことを気にしていたら心がもたなくなるのは当たり前だ。


仕事でストリートチルドレンやシングルマザー、薬物中毒者と関わる反面、私は自分の心と体を守るため日常生活で彼らと向き合うことを忘れかけていたのかもしれない。


帰り道、私が数年前に初めて訪れたウガンダで出会ったストリートチルドレンのロニーくんとスラムで豆ご飯を食べ、たくさん話した日々を思い出した。目の前の少年がどうしてストリートに来たのか、何が課題でこれからどうしたいのか、理解しようと懸命だった。


しかし、いつのまにか彼は大勢いるうちの一人で、この国の日常の一部なんだと捉えるようになった。


この不条理な社会で人が倒れ、人が助けを求める姿は当たり前なんだと。


でも、今日出会った彼もそこにいるのは偶然ではなく、一人一人のバックグラウンドがあるのだ。誰にも話しかけられなかった彼のことを、私はまだ何も知らない。彼にどんな過去があり、何を考えているのだろう。


明日、排水溝に埋まる彼がまたそこにいたら、声をかけてみよう。

この記事が参加している募集

今日の振り返り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?