manuel-nageli-575845-unsplashコピー

絶望から音楽で東京藝術大学に合格して、起業をするこれまでの7年間の話。

画像1

拝啓、過去を想う望郷の詩。

受験に失敗して絶望した過去の自分、
いつかもっと絶望もしくは輝いている未来の自分への記事です。


はじめに、
僕はこの春で東京音楽大学を卒業し、東京藝術大学に移ります。
これまで歩んできた音楽の道のりをどう評価、判断していくのか、それはもう少し先になりますが、今見える範囲でこれまでを振り返ることから筆を動かしていきたいと思います。


僕と音楽の出会いは17歳の夏、シルク・ドゥ・ソレイユからはじまりました。

自分の意志ではなく、連れられていった一つのサーカスで僕の人生は傾き始めます。人生で初めて見るサーカス、暗いステージを光とともに縦横無尽に飛ぶパフォーマー達に感動。しかし本当に心を奪われたのは大きく自在に鳴り響く音楽でした。


画像2

彼らのサーカスに花を添える虹色の音に魅了され僕は音楽の道を志します。

音楽家になるには音楽大学に入らなければ。音楽以外の事をたくさん捨てて、17歳の僕は高校を中退して東京藝術大学に挑戦をします。
しかし実際の生活は、ひたすら音楽にのめりこみ、打ち込むような思い描いたものとはかけ離れていました。
受験費用の捻出のため、深夜の牛丼屋でバイトをしつつホストをはじめ、精神の消耗をしながら楽器を弾く毎日。ただ楽器を弾きたいだけなのに、なぜ自分は暗い世界に立っているのか、時々どうしようもなく絡みつく闇に足を取られそうになることもありました。
それでも楽器が好きで、続けられていたように思います。

画像3

しかし受験には失敗しました。

2次試験の結果、発表の掲示に自分の番号が無く、真っ暗の部屋でうなだれ、ただ泣いていました。黒くて重い絶望が周りを覆う感覚は今でも鮮明に思い出せ、心が落ちます。
当時の全力を出しての結果で、残るのは悔しさだけ。
「働いたりしていなければ、全ての時間を楽器に使っていれば…」当時はそんな風に思っていました。


2浪する元気はなく、東京音楽大学に入学します。
藝大をひきづっていたけれど、新しい環境、音楽大学には心はドキドキしていました。
どんな音楽が聴けるのか、才能と出会えるのか、勉強ができるのか。

しかし、失望。

思っていた授業と違う、切磋琢磨の厳しい環境ではない、ぬるい…環境に中指を立ててばかりの入学後半年間でした。苦悩にまみれ、景色は灰色になっていきます。

画像4

そんな折、冬休みに学校のプログラムでドイツへ3週間の短期留学をする機会がありました。
はじめて行く海外、長期フライトから見る空の青も、橙や肌色の街並みも、透明に乾いた空気も音も、全てが刺激的で、心が動かされました。うっすらと、大学卒業後に日本を出る選択肢が心に浮かびました。

大学2年目
精神の維持は難しいもので、楽器はそこそこに遊んでばかり、すっかり辟易していたぬるま湯に浸かっていました。
しかし転機があり、日本からの脱出を決意します。当時の彼女にフラれた、たいした話ではないので割愛します。
もう一度ドイツに行きたい!しかしお金はない…
この時に奨学金制度「トビタテ!留学JAPAN」に出会います。
ここが大学生活の、人生のターニングポイントの一つでした。

3年目
大学を休学して留学をします。
その前に、前述した奨学金のプログラムでたくさんの友人と出会う機会がありました。東京音楽大学しか知らない自分には、様々な大学の頭が良い人たち、多様な目標と出会いで価値観を揺さぶられる衝撃が大きすぎました。
少しずつ音楽以外の自分の在り方を心の隅で考えます。


画像5

そのまま渡独、2度目のドイツもそれはそれは楽しいものでした。
常にバイトをしながら楽器を弾き続けた自分には、働かなくてもいい留学生活はむずがゆさがあり、しかし久しぶりに時間をゆっくり自分で使うことができた日々だったように思います。緑や青など自然の色を多く見た1年間でした。
そして思考は自分との対話へ時間が割かれました。
心はどうあるのか、何が見えているのか、大事なものはなにか、色彩は豊かか、未来はどうなっているか…多くの自分と向き合った留学でした。

4年目
帰国して復学します。
留学が楽しかったからか、復学後の記憶はあまりありません…。
しかし、留学を通して生まれた問いが頭から離れません。

「このまま音楽の道で本当にいいのか?」

ここでひとつ結論を出します。外の世界も見てみよう。
就活をする決意をしました。

5年目前半
就活は大きい会社の経営がかっこいいと思い、ソニー、楽天、サッポロビールを受けました。それぞれ好きな製品があったから、くらいの理由です。
ラフな格好で面接に行っては「音楽をしてきました。経営がしたいです」と言い続け、面白がってもらい結果は上々でした。

しかし、
・就職すると音楽が出来なくなること
・自分の目標が企業の目標にすり替わる恐怖
・そもそも一年目から経営には関わらせてはくれない笑
などから就職は諦めます。当時は馬鹿だと言われました。

同時期に、家族とフェンシングのスクール事業を立ち上げます。経営に興味を持った自分にはいい機会でした。
知識0から始めた事業は運よく今も続けられています。ポジショントークは好きではないですが、実現できる最良のフェンシング環境をこれからも墨田区から作っていきたいと思います。
…そして同時にもっと大きな事業を興したいと思い始めました。

5年目後半
自分の事業を興したいと思った僕はアイデアを考え出します。
タクシー配車、マッチング、家庭教師、クーポン…たくさん考えてみました。
これはいけそう!自信をもって人に見せてはボコボコにされ、潰す日々を経て一つのアイデアが生まれます。


画像6

このアイデアは今、仲間が増え、財団に採択され、「NOIAB」と名がつき、今年の終わりにはWebサービスとしてリリースをします。僕は今、新しい世界を創ろうとしていて、それはまた別のnoteで出します。

しかし、アイデアを創り育て、事業が形を成していく中で思いました。

「音楽はどうする?」

ここまでで、僕の大学生活は音楽から入り、だんだんとかけ離れたこともするようになりました。しかし音楽は好きで、ずっと練習は続けていました。


好きだ、音楽が、楽器が本当に好きだ。しかし自分より上手い人はたくさんいる。食っていけない。就職もむずかしい。
才能という言葉でくくるなら、僕には音楽の才能はない。
勝てない音楽で戦うより、勝てる事業で人生を進めるべきだ。
悩みました。

そして、


僕は東京藝術大学の受験を決めます。
落ちたら音楽を辞めると誓って。


人は死を認知すると、行動が変わると言われています。
僕にとって音楽の終わりを設定したことは、日々に大きな影響を与えました。
楽器を触るのが楽しい、練習の時間を慈しむ、気持ちの変化に敏感になり、見るものの色彩が豊かになりました。大学生活のどの時代より多くの色を見るようになりました。
好きなことを好きだと心から受け入れ、終わりと向き合い、愛した時間でした。楽しかった…



そして、
受験は終わり、藝大に受かることができました。
音楽との終わりが伸びた嬉しさ、才能が少しは認められた誇らしさ、多くの感情の中に、過去に許された気持ちがありました。

大学受験失敗で暗く引きづった思いを、これまでの全ての報われない努力を、自分は常に自分を許していなかったんだと気づきました。

その気持ちがあったからストイックに努力を重ねることができた。多様な挑戦をすることができた。
だから、心の半分で、そう生きてきた自分にありがとうとお疲れ様と…

画像7

これから、
この春から僕はまだ音楽を続けられます。
三つの事業と音楽と、パラレルな生活を送ります。
音楽家になるのか、別のものになるのか、何者かになるために何足もの草鞋を履く覚悟を決めました。
せっかく入れた藝大も、無為にしないようしっかり設計をして生活します。


終わりと向き合えたから見えた自分がいます。
心に沿って、これからも僕の全てを世に出していきます。


おわりに、
浪人も、受験失敗も大学生活も疲れたことが多々ありました。
そのたびに、前に進むか戻ろうか悩みました。それでも足は歩き出します。
僕は行かなければならない。
最低な日々が、最悪な夢が、始まりだったと思えば随分遠くに感じます。
これからもたくさんの苦悩が待っていて、そのたびに迷い、明るく陽が射す道ばかりではないでしょう。

これからの未来に、沢山の絶望と希望があることを、今はただ楽しみに筆を置きます。

この7年間で僕と出会った全ての縁と両親、最後に自分に感謝しています。
ありがとうございました。


普段はTwitterで日々のことをつぶやいています。
是非フォローしてください!
Twitter: hokuto_bass

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?