幸い(さきはひ) 第五章 ⑬
第五章 第十三話
「何より、私には心に想う方がいます」
力強い口調から一転、ぽつりと空気に吐かれた、千鶴のつぶやきともとれる小さな声。
普通ならば、隣室にいる自分には聞こえないであろう声。
けれども、それはあまりに揺るぎないものとして桐秋の胸に突き刺さる。
そうか、その可能性もあるのかと桐秋は思う。
まさに青天の霹靂《へきれき》だった。
自惚《うぬぼ》れているわけではないが、千鶴に想っている人間がいることなど考えもしなかった。
普通、想う相手がいるなら、休みを取って会いに行ったり、手紙の一つでもやり取りするだろう。
だが、千鶴はここに来てから、そういう素振りも見せていない。
だから勝手に千鶴のすべてを独占できているような気がしていた。
桐秋の頭に千鶴が語った初恋の話が思い出される。
千鶴の想う相手がそこにいる気がしたのだ。
桐秋が目には見えない千鶴の想い人のことを考えている間に、洋間では千鶴が絞り出すように中路に最後の断りを告げていた。
「申し訳ありません。いただいたお話はお受けできません」
静寂《せいじゃく》な時が続く。
しかし、千鶴の姿に決心が硬いことを知ったのだろう、中路の声が響く。
「分かった。君にも譲れない想いがあるんだね。
そういうところも千鶴ちゃんらしくて僕は好きだったんだ。
一生懸命考えてくれてありがとう。
お元気で。
後は頼みます」
中路は最後にそう言うと、想いを置いて、部屋を静かに後にした。
*
玄関の扉が閉まる音がしてしばらくすると、隣室からはすすり泣く声が聞こえてきた。
桐秋は現実に意識を戻す。
優しい彼女のことだ、中路のことを思って泣いているのだろう。
自分がどう思っている相手であれ、人を傷つけたことに傷つく、細やかで憐れみ深い女性だから。
終わりに中路が放った言葉は、千鶴にとっては、桐秋のことを看護婦として頼むという意味に捉えたかもしれない。
が、実際は隣で聞いていた桐秋に向けられた言葉。
彼はこうなることが分かっていたのではないかと桐秋は思う。
好きだったからこそ、こうして彼女が泣いてしまうことも分かっていたのだ。
そのために隣に自分を待機させていた。
千鶴の発した言葉で中路は振られ、桐秋は心乱された。
それでも、一人の乙女に振り回された二人の男が祈ることは一つ。
――柔らかな乙女の心に、一秒でも早く平穏が訪れますように。
桐秋は隣の部屋から願うことしかできない。
千鶴は自分が傷つき泣いていても、桐秋がこのことに介入することを望んでいない。
背中を預けている薄い壁がなければ、彼女のことを抱きしめられる距離。たった幾寸《いくすん》かの距離だ。
でもそれはできない。
だが、泣いている千鶴を独りにはしたくない。
ならば彼女が泣き止むまではと、桐秋はその場にとどまり、天井の雫のようにも見える木目《もくめ》を静かに見上げるのだった。
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