そろばん入れ
母は5人きょうだいの4番目で、上3人は年の離れた姉、下にやっと男の子が生まれた、という立場の人だった。
それぞれの人生を経て、長姉、次姉と母が亡くなったのはいずれも1月のことだった。3人とも極寒のさ中に逝ってしまった。この冬はそれぞれの当時と違い、暖冬で雪の苦労もとんどないまま1月が行こうとしている。
ふと、古い写真を取り出し眺めていると、遠い記憶が蘇った。
母が小さかった頃のことも、娘の頃も、私は当然知らない。
私を産んだ時から入院の身となり、何度も死の淵を彷徨った。私は母に育てられずに、伯父伯母のもとで大切にされた。
幼い私が知っている母は、気分のいい日が一日もないような、そんな姿ばかりだった。不貞寝のようにさえ見えた。
小学4年の時、そろばんの授業があった。大概の子が、学校斡旋のものを購入し、綺麗なケースに入ったものを使っていた。
私は、伯父が使っていた五珠が2つ、一珠が5つある大きな昔のそろばんを持っていくように言われたが、とても嫌だった。そろばんの授業はだから嫌いだった。
そんなある日、伯母が母を訪ねてきたことがあり、
「そろばんの袋くらい縫ってやりなさい」
と言うのが聞こえた。
母は生返事だった。
毎日何も面白いことがなかった。
友達がやりたいと言ってやらせてもらえる、欲しいと言って買ってもらえる、そういうことがとてもとても羨ましかったが、それを口に出せばもっと惨めな気持ちになるから、私はその頃から自分のことでは泣かない娘になっていった。
子供が泣くのは自己憐憫である。泣いてその我が儘を受け止めてもらえるという期待と甘え。受け止めてもらえずとも泣きわめく。
どちらもみっともなくて嫌だった。
家に帰っても母は横になっているし、オヤツなんか作って用意してくれるはずもない。
その日は土曜日で、私は大好きな伯父伯母の家に泊まりに行けることになっていた。月曜の朝まで滞在出来て、バスに乗って学校に直行するのだ。
嬉しくて、バスを降りるとランドセルを揺らし、中の物を鳴らしながら走った。
伯母は私が入っていくと、手招きして何か出してきた。
「今日は午前中におかあちゃんが病院に来たんだよ。これ作ったからと置いてったよ」
細長い小豆色の袋には、昔のそろばんではなく、皆が使っているのと同じそろばんが入っていた。いつ母が縫ったのだろう。同じ家に住んでいても、実の親子でも甘えることをしない私と、子供にかまわない母だった。
「袋は皆と同じではないけど、おかあちゃんは裁縫上手なんだよ」
子供の目にも遜色がない。学校に持って行っても何も恥ずかしくない。
ただの袋だが、丁寧に縫われていたそれは、何も期待していなかった私をうちのめしていた。
何もできない母ではなかった。
そういえば、ある春の一日。
私が外に出て、ひとり野草を見たり摘んでいると、母も出てくることがあった。その時母に教えられたのは、シロツメクサの冠の作り方。
夢中になった私は、どこまでも長く長く編み、母に示しては驚く顔を見るのが好きだった。
今年は春になったら、冠を編んで墓前に捧げようと思う。
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