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カミソリ

以前読んだ本で、昭和天皇の髪を散髪していた理容師がふと、
「今、自分が狂ってしまったらどうしよう」
と、自分自身に恐れ慄いたそうだ。

手に持ったハサミやカミソリで天皇を傷つけることができる。
下手をすれば殺すこともできる。
何と恐ろしいことを職業としているのだろうとの、述懐であった。

人間だれしも狂気を内在しているものである。

その理容師の気持ちはよくわかった。
昭和天皇は優しいお人柄だったようだから、それは両者にとって幸いであった。

我が家には、斧だのチェンソーだの、ドリルだのが手の届くところにあり、それを手にする事を全く躊躇わないどころか嬉々として使うのが約2名いる。

ホラー映画なんかで危ない道具を使って、猟奇的な事をしているようなシーンも想像できる布陣である。私はそういう血なまぐさいことは怖いし気持ち悪いし、だからきっと大丈夫だと思うが、私を怒らせたら責任は持てないので怒らす方が悪いのだ。
怒らせて本当に怖いのは夫より私であると自覚している。

その私、昨日、夫の髪を切ってやりながら思い出すことがあった。それは繰り返し思い出される情景で、冷たい刃物の光がぼうっと浮き上がる。

癌の手術のため入院する前日、知り合いの理容室で顔、首、胸、背中を綺麗に剃って貰った。
手術時に勿論消毒はするし、患部以外は覆うといっても体毛についたわずかな細菌が悪さをしないようにという話だった。

自分でも顔は剃るが、後ろは無理な話。

ましてや、上半身を晒して剃ってもらうなど・・・・病院には理髪店もあるが、私は私にカミソリをあてる相手を考えた。

娘の同級生のお母さんが開いている理容室にお願いしてみた。
普段はお客さんの髪の毛のカットや顔そりだけするのに、上半身全部の剃毛とはどう思うだろう。

事情を話すと、快く引き受けてくれた。

約束した時間に店に入ると、彼女のお母さんが穏やかな顔で言う。

「大丈夫ですよ」

彼女は直ぐに鍵もカーテンも閉めてくれて、丁寧に祈るように剃ってくれたことを昨日のことのように覚えている。

「大丈夫だよ」


彼女がワタシの胸や背中にあてるカミソリの刃は、優しく柔らかいものであった。

剃ってくれた彼女も癌患者であった。
今も薬を飲みながら現役である。



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