伯母の手仕事
2011.3.11から半年ほど経ったころ書いた記事です。
伯母は健在でしたが、この頃から「本当に年を取ってしまったな」と感じるようになりました。フォロワー様の記事を拝見し、手仕事のありがたさを再確認しましたので、載せたいと思います。
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3.11大震災は、予期せぬ出来事を多くのひとにもたらし、直接の被災者でなくとも衝撃となって世界を駆け巡った。
超高齢の伯父はあの揺れがなければ今も元気でいただろうか。ふとそんなことを思う。が、元気で、自分の身の回りのことは問題ないとはいっても、伯母の掛り人になってしまった高齢者だった。
伯母も、日々気難しくなる伯父の世話には、限界がきているようであった。
思いがけない災禍で伯父を突然喪ったのだが、ずっとやるべきことを淡々としてきた伯母は、伯父亡き後も淡々とそれまでと変わらぬ日々を送っている。傍目にはすっかり背中が曲がり、こじんまりとした、足元も危ういただの老婆である。
しかし、相変わらずあの家を訪ねるひとは多く、伯父の軌跡もさることながら伯母あっての伯父の人生だったことに異を唱えるひとはいない。
わたしは通勤の際の車を、置かせてもらっているので、朝夕必ず顔を見に寄るわけだが、朝はわたしのお茶が淹れてあり、昼のおやつを必ず包んで持たせてくれる。
きちんきちんとひとり分の食卓を整えつつも、実は沢山作って来るひとに振舞い、仕事帰りのわたしにも持たせてくれるのだ。
老婆ひとりのところに伯父供養の品々、菓子だったり、お菜だったり、米味噌まで届けてくれるひとたちも数多い。
「今日は誰それさんが来て…」
抜いたばかりの大根や、採ったばかりの野菜、そういうものが絶えない。
「置いていても食べきれないで腐るから」
だからわたしも気安いのである。
先日来、伯母は肌着のひと目ひと目を拾って、毛糸で編み足し裾を伸ばしていた。わざわざそんなことをしなくても、箪笥には新品の肌着があるのにだ。
伯母の元にいた幼い頃から、わたしは伯母の手仕事を見ていた。とにかく手を使うひとである。
畑に丁寧に野菜を作ったり、梅の実が成れば拾い集めて梅干しに漬けたり、柿が成れば伯父と二人で指を渋で黒くしながら皮をむき、次々と干し柿にして吊るす。
針を持って繕いものをしたり、編み物をしたり、少しぐらい手を休めればいいのにと思うこともしばしばであった。
具体的に手ほどきを受けたことはそう多くないが、見よう見真似で編み棒を動かす幼い私に
「わたしより、アンタのお母ちゃんの方がずっと手先が器用で縫物も編み物も上手だった」
と話しては教えてくれた。
わたしは病弱でだらしない母しか知らない。伯母の話は本当だろうかといつも不審に思ってもいた。
あるとき、家の古い箪笥を開けると、丁寧に編まれた男もののベストがあった。
「コレ、だれの?」
母は
「お父ちゃんの」
と答えた。
「どうしたの?」
「結婚したころにわたしが編んだ」
まさかと思ったが本当だった。その話を伯母にすると
「アンタのお母ちゃんは…」
とまた同じ話をする。
始末の良さでは母の方が伯母より上だったと言うから、母が体を壊さなければどんなだったろうと切なくもある。
今日の夕方仕事を終えて伯母の所に寄ると、編み足した所を閉じている途中だった。わたしは早速手に取り、勝手に最後の始末を始めた。
時間が許すのであれば、毎日でも針を持ち、編み棒を持ち、ミシンをかけていたいわたしでもある。
最後に毛糸をぷつんと切ると、伯母の見立ては実に無駄がなく、ほんの少しの毛糸が残っただけであった。
「参りました」
わたしは敬意を表して、伯母の肌着を丁寧に畳んできた。この冬はとろとろとストーブの傍でまた手袋でも編もうかと思っている。
自分のではなく、誰かのものを。
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