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そもそもが減点

生まれる場所と能力、容姿、性別、名前も選べないのだから、そもそもが減点なのだ。

それなのに僕らは後天的な要素なら何とかできる、選べると思いがちだ。

人との出会い、趣味、通える学校、労働場所、年収、他者からの評価、病、老い、事故、事件、そして死…。

確かに行動は選べる、人との出会いも、出会いの場所に行けば得られると思いがちだが、行動は超自我などの圧によってコントロールされているし、出会うことはできても、どんな人に出会うかまでは選べない。
《新垣結衣に瓜二つで、自分に媚びてくれて、黒髪で、ハタチかつ処女》みたいな。

《僕の考えた最強の彼女》なんていうものは存在しない。そういう意味で、後天的な要素も選べないのである。

先天的に環境とミスマッチな属性を持っていて、それが後天的な要素に影響してくるというのもある。
紛争地域に生まれたとして、その国から出たいと思う。
しかし出たとしても住むアテや働き口がない。アテがあるならとうにそうしているし。選びたくても選べないのだ。先天的な要素が詰んでいて、後天的な行動結果も詰んでいるのだ。

先天的なもののせいなのか、後天的なもののせいなのか…グラデーションだとは思うが、どちらにせよ選べない。
後天的に行動しても、結果は選べない
学習によって結果を予想し、逆算して行動することはできるが、やはりそれでも完璧にはいかないことが多い。あくまでも予想なので。

オーディションや選考を受けるという行動をして、「受かるかもしれない」という予想はできるが、選ぶことはできない。強いて言うなら選ぶのは審査員だ。
そして運良く自分の漫画などの作品が世に出たとしても、発行部数は選べない。もっと言うと連載期間も選べない。打ち切りになる可能性だってある。打ち切られたくて打ち切りになる作家はまずいない。オーディションに落ちたくて落ちる人もこれまたいない。

これが選べるなら、みんなイーロン・マスクか鈴木一朗、鳥山明だ。
しかし現実は違う。宇佐崎しろは、しっかり仕事をするという行動をしていたにも関わらず、相方の不祥事という結果で連載が打ち切られたし、本気で野球をするという行動をとっていた沢村栄治も、徴兵という結果で肩を痛め、しまいには戦死するという結果になった。先天的な能力には恵まれていたのに、だ。

こんなような人間は、表に出てきていないだけでゾロゾロいる。表に出る人間で転落するのは逆に珍しいが、出ていない人間は転落しないのが珍しいのだから。

しかしそれは人生もそうで、生まれた時点で死ぬことが確定している。
死は後天的なものだが、病と同じでコントロールはできない。

人生に絶望するのは、後天的な要素は努力や意思でなんとかなると思っているかだ。
だからものを失ったり人との縁が切れたりすると執着してしまう。

極端な話、どう頑張っても日本中の全ての人間と話すことはできない。1億人いるし、マークでもつけない限り誰と話したか話していないかも分からない。

家電だって壊れる。袋だって破ける。そして劣化する。
これらは修理することは出来ても、新品の状態に戻すことはできない。 
ほとんどの物は不可逆であり、思い通りにはならないのだ。

僕らが思っている以上に、後天的な要素は選べないのだ。

努力だってそうだ。
努力は超自我などの圧力がない個人的な行動だから出来そう(選べそう)に思えるが、仮に好きでもないことを1日12時間、かつ10年間やれるだろうか。しかも芽が出ても金にはならないであろう分野だ。その行動を10年間選べるだろうか。選べても3年が限界だと思う。
努力という行動も選べるようで選べない。選べる条件としては、自分にとって思い通りになる要素があるか、快楽を感じることができるか、それ相応の見返りがあるかどうかだと思う。それらがないと選べない。我慢にも限界がある。無理やり選ぶと恐らく精神疾患などになるのだろう。ちなみに精神疾患になるかどうかも選べない。

先天的な要素も、後天的な要素も同じく選べないのだから、減点方式はやめよう。生まれを選べない時点で元から減点なのだから。上手くいかないことや、思い通りにならないことは、先天的な骨格や性別だと思って過ごしていこう。
人生は元から減点なのだから、「どう頑張っても結果は自分で選べないから減点になるな」くらいの心持ちの方が、絶望しないで済みそうだ。

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