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のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある。拳骨で叩きのめすときがきたように思うがいかに。

この論文においても、彼は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
2018年03月12日
高山正之は週刊新潮の掉尾に名声を博している連載コラムを掲載している。
以下は今週号からである。
この論文においても、彼は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
見出し以外の文中強調は私。

支那を叩くとき
支那人を知るには左手で敬礼する習近平を分析するのもいいが、黎元洪という人を調べた方がもっといいかもしれない。 
彼は大方の支那人と同じに泳げない。
それでいて海軍を志望し、日清戦争では巡洋艦広甲に乗り組んだ。 
黄海海戦では日本艦隊と対峙したまではよかったが、艦長も黎も怖くなって前代未聞の敵前逃亡をやった。  
挙句は勝手に座礁し、彼は海に逃れるが、途中で泳げないことに気づいた。  溺死寸前で部下に助けられた。
これで海を諦めて清朝が新たに創設した武漢の旅団司令官に就いた。  
仕事は興中会など清朝に楯突く革命分子を捕まえて処刑することだった。 その日も100人ほど捕まえてきて夕刻にそのうち3人を銃殺刑にした。
ただ100人の中には彼の配下の兵士も多数いた。 
革命思想はどこまで浸潤しているのか。
不安に思いながら寝入ったときだった。
武漢三鎮の一つ武昌の武器庫で大爆発が起きた。 
黎は革命派の蜂起を直感した。
彼らにとって黎は憎むべき敵の首魁だ。
衆人の前に引き出され、耳を削がれ、目を刳り抜かれて、切り刻まれて殺される自分を想像して失禁した。 
彼は部下を呼んだ。
鎮圧を命じるのでなく、隠れ家を見つけてと懇願した。

武昌大爆発は別に革命派の仕業ではなかった。
火薬樽を運んでいた兵士がそれを取り落とした偶発事故が正解らしいが、一方の革命派も黎元洪と同じ錯覚を起こした。
「我々の誰かが蜂起したらしい」。 
かくて大騒ぎの夜が明けたとき武漢は革命派や俄か革命派たちが群れて、ただざわついていた。 
それをまとめたのが退役軍人の大原武慶、孫文と知己の大陸浪人、萱野長知ら日本人グループだった。 
一方、清朝の軍をまとめたのが独軍事顧問団だった。
革命ごっこは日独の代理戦争の様相を呈していったがそんなとき隠れ家に潜んでいた黎元洪が見つかる。 
さあ血祭りにするか。
ただ革命派には頭目がいなかった。
孫文は横領がバレて米国に逃げている。
どうだろう、敵方だけれど名のある黎元洪を当面、革命派のトップに据えてみたら。 
もともと錯覚で始まった辛亥革命だ。
それくらいの融通はきく。
黎は当面の革命派の頭目になった。
世に「心外革命」と呼ばれるゆえんがそこにあった。 
一方、孫文はデンバーにいた。
その資金は気のいい日本人梅屋庄吉から引き出したものだった。 
彼は武昌蜂起を米国の新聞で知るとすぐ支那に帰らなかった。
逆方向のニューヨークに飛び、そしてロンドンに回り、新しい支那の統帥者と称して資金集めに駆けまわった。 
彼は過去10回蜂起して10回失敗したが、その都度、出資者を探し出しては焼け太っていった。 
多分、今度も失敗だろうが、カネが集まればそれでいいと孫文は思った。
そういう男だと彼をよく知る米人ジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・リーがその著作で書いている。
孫文が帰国すると案に相違して革命は成功していた。
黎元洪は偉そうにし、袁世凱も出てきた。
詐欺師孫文の出る幕はなかった。 
ただ一つ、支那で「辛亥造反」と呼んだ武昌蜂起を彼は日本風に「辛亥革命」と改めた。
これだけは支那人も倣った。
以後、政治的な卓袱台返しを支那人たちは「革命」と称した。 
最初は不平等条約改正で使った。
日本は各国と交渉をして条約を改めたが支那は革命外交と称して全ての不平等条約を無効とした。 
日本の満州権益も同じで支那は過去の経緯を消して卓袱台を返した。 
以後、支那は国際ルールを無視した革命外交一本で今までやってきた。 
南沙は国際法廷がお前に権益はないと判決しても革命的に無視した。
「50年間は一国二制度」の香港も勝手に一制度に切り替え中だ。 
そして我が尖閣も革命的歴史観で支那の核心的領土にされつつある。 
のさばる支那の傲慢には日本にも多々責任がある。
拳骨で叩きのめすときがきたように思うがいかに。


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