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齋藤純一『不平等を考えるー政治理論入門』筑摩書店(ちくま新書)

推しコメ(高橋聡)

本書を通じて読者は、J.ロールズを中心とする現代の政治理論家たちの最先端の議論のエッセンスを通覧できる。評者が本書から学んだことは多々あるものの、ここでは二点だけあげておく。

第一は、本書のタイトルが示す「平等」(*)という価値(観)を政治理論の中心に置く意味である。著者によると、社会制度の存在理由は市民間の「平等」な関係の確立・維持にある。
*著者によると、「平等」は同じであることを意味しない。能力や才能は各人で違いがあり、これは正当/不当を問えない。問題は、この違いが社会の制度や慣行を通じて関係性の有利-不利に変換されることにある。より言えば、その人に「値しない不利(undeserved disadvantage)」が問題とされる(p.17-18)。

それでは「平等」な関係がなぜ重要な価値といえるのか?著者の答えは、自尊心の破壊や他人の意思による支配を防ぐためである。具体的に言えば、社会保障は、他者の支配に抗して自律的に生きうる生活条件をすべての人に保障する(べき)制度なのである。以下該当箇所を引用してみる。

「主要な制度 (=たとえば税・社会保障)の役割は、それを構成する人々の間に対等な関係を築き、それを維持することにある。・・・現代の社会は価値観や生き方を異にする様々な人々から成っており、そのほとんどは見知らぬ他者のままである。市民が共有する制度は、どのような人々も他者から意のままに恣意的に扱われることのない立場を保証するためにある」(p.19)

「制度の重要な役割は、市民がほかの市民の意思に依存する関係に陥らないようにするために、不利な立場にある人々が他者の恣意に抗しうる条件を保障することである。」(p.22)

女性非正規労働者の例でいえば、引用箇所が最賃保証、労働時間規制、解雇規制、ハラスメント防止などの制度の存在理由となる。

第二は、自尊感情(*)を他者との関係で問う意義である。平等化のための政策といえば、政府による財やサーヴィスの分配による生活条件の確立を通常は意味する。しかしこのような所得再分配政策だけでは、自尊心の毀損への対策としては不十分である。著者(そしてロールズ)は、すべての人が自尊心を持ち、将来に希望を抱いて生きられる社会を希望する。有名な格差原理も、このような立場から不平等を正当化する理論といえる。しかし、財の分配から自尊感情を直接引き出すことはできない。なぜならこれは、自分が他者から尊重され、大切に扱われているという感情であり、他者との関係性の中でのみ育まれる感情だからである。再び本書から引用してみる。
*一応つけ加えると、この自尊感情(self-respect)は、自己満足とも他者への優越感も兼ねる「プライド」とも異なる。

「自尊は対等な市民として他者から尊重されるときはじめて得られる。ほかの市民との関係において劣位の者として扱われることが続くなら、市民間の関係から相互の尊重が失われる。ロールズによれば、自尊を抱く人々は互いを尊重しようとする傾向があり、逆に自尊が損なわれる場合には、妬みなどの負の感情が対等な関係を損なう」(25)

それでは自尊心を傷つけられる状況とは、どのような状況だろうか?例として、使い捨ての安い労働力として扱われることや制度の保護・給付対象者が落伍者とみなされることがあげられる。あるいは、高齢、障害、疾病、技量不足ゆえに労働能力を欠くとみなされる人は、孤立し、自らを「余計者」とみなす(67)。すなわち彼らは、市民相互の平等な関係性から離れ、自らを劣位の立場に置こうとするかもしれない。AIが普及する時代には、労働能力不足という状況がほとんどの人に該当する可能性がある。そうだとすれば、自尊心の毀損は一部の人だけの問題とは言えなくなる。

また就労による自立という考え方は、労働と生産性による「生の序列化」をもたらす。就労とは、労働市場の賃金・雇用労働を模範とし、生命の維持・再生産に不可欠なケアワークを従属的地位に置く。この考え方は、社会の存続にとって不可欠であっても、生産的ではない(生産性が低い)とみなされる活動を劣位に置く(112)。

だれもがいつ自尊感情を損なうとも限らない。そうだとすれば、財の再分配に拠らぬ対策というものははたして可能なのだろうか?著者がロールズから引用して説くのは、多様な価値観を基準とする分散的な部分社会(アソシエーションやコミュニティ)の役割である。そこは、就労や生産性をもって良しとする価値観のみが一元的に通用する場ではない。これを今日の言葉でいえば、労働の場でも家庭でもない様々な「サードプレイス」や「居場所」が並存する社会といってもよいだろう。

「制度が果たしうる役割の一つは、市民社会の価値評価基準が一元化される仕方で編成されるのを防ぎ、様々な生き方をする諸個人が、それぞれの価値観にふさわしい多元的なアソシエーションやコミュニティをもつことができるようにすることである。・・・そうした基準が市民社会に多元的に分散していれば、人々はその才能や適性あるいは願望に応じて自らの生を充実させていくことができる」(67-68)

このような様々な価値基準を有する多元的な場での「活動とその成果の承認」に著者は期待をかける。そうであるならこれを可能にする物質的な条件を考える必要がある。まず、そのような場にいるためには労働時間の短縮が必要であろう。その一方で市民には増加する余暇の過ごし方が問われる。すなわち、「活動」よりも財・サーヴィスの消費だけで余暇が費やされる今日の消費社会のあり方が問われよう。

たしかに本書は読み進めるのに骨が折れる書である。しかし、政治学徒だけでなく、経済学や社会学を学ぶ者にも一読をおすすめしたい。なぜなら、経済の諸制度をめぐる議論についても、一段深く問題を考えられるようになるからである。たとえば、税の負担と受益の公平性(あるいは就労自立の価値基準)、世代間対立、子供の貧困、障碍者や高齢者の暮らし、性差別的労働慣行と賃金体系、賃金格差や解雇といった山積する今日の課題に本書の議論を応用してみてはどうだろうか。

そこで、様々な社会問題にアプローチするたび、その都度ガイド役として本書を手にすることをすすめたい。マスメディアやネット上の言論だけを見て社会問題をこれまで論じていた人も、学問の歴史的蓄積の中で鍛えられてきた理論とヴィジョンに即して問題を考えているはずである。


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