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茶粥の話。

茶粥が食べたくなった。

私の祖父の家は、
山口県の周防大島にありました。
小学校の夏休みのほぼ1か月は
毎年大島で過ごしていました。

朝は祖父の般若心経と木魚の音で目が覚める。
祖父は、お坊さんではないのに、毎日般若心経を唱えていた。
あわてて起きて、一緒に唱える。
毎年やっていたので、
私はまだ般若心経を覚えている。


6時30分になったら
家の前に並んでラジオ体操をする。
父親と叔父さんは、ステテコ姿でたばこ加えて
家の前に並ぶ。

朝のお墓まいり。林を切り開いた小高い丘の上を目指す。
祖父と孫たちが一列になって
線香筒を持って
小さな橋を渡って
石畳のような細い道を
海のほうに向かってすたすたと歩いてゆく。
ベンチに座るご近所さんに
おはようと挨拶をしながら。
日焼けした祖父の細い脚は
血管が浮き出ていて
少しガニ股だった。

お墓には本物の孔雀が、時々羽を広げて待っていた。

祖父の案内で
南無阿弥陀仏を唱えながら
先祖代々をあちこちお参りするけれど
私たちには先祖が遠すぎて
誰のお墓なのか
全くわかっていなかった。

朝のお墓参りには
祖母は滅多に参加しなかったけれど
お参りをすると
「なんまんだぶ ありがとう ありがとう」
と言っていた。


お墓参りから帰って
あとで起きた他の孫たちと
そろって茶粥を食べる。
さらさらしているから
4杯5杯は軽く食べた。

日が昇ってきたら
川の水位で潮の高さを判断して
水着に着替えて走って海まで行く。

お盆を過ぎるとものすごい数の
くらげと一緒に泳ぎ
死んだくらげを遠くに投げて遊んでいた。
私はクロールより平泳ぎがすきで
波に乗ってどんどん沖まで泳いでいた。
足が海底につかなくなっても
遠くに行ける気がしていた。

疲れたら、波の上で仰向けになって
顔を太陽にあてながら浮かんでいた。

顔半分が空気に触れる感覚と
耳の閉ざされた中の音が
なんとも言えないやすらぎ。


帰ってきたら外の洗い場で砂を落とす。
ホースで水の掛け合いをして
虹を創って遊んでいた。
洗い場の側にはなぜだか大きな火鉢があって
育ちすぎて普通の大きさじゃない金魚が
その中を泳いでいた。

お風呂は薪焚きで
私たちの帰る頃を見計らって
祖母が沸かしておいてくれた。
お湯に入ると
塩水が真水と混ざるような味がして
ほっとしてすぐ眠くなった。

ござのい草のにおいが
私はとても好きだった。





そんな暮らしを懐かしく思い、いただいた
「こ茶」といわれる茶粥のもと(ほうじ茶らしい)
で、さつまいもを入れて、炊いてみました。

茶粥は「ちゃちゃ」とか「おかいさん」
と呼んでいて
朝の茶粥炊きは祖父の仕事。

大きな鍋に、たっぷりの湯を沸かし、
ガーゼのような袋にこ茶を入れて
濃い茶色になるまで沸騰させる。

祖父の日焼けした裸足が
台所をガニ股で歩くのが思い浮かぶ。

ちょっと苦めの、香ばしい香りがして
ほわほわした湯気が立つ。

お米と、ひとくちサイズに切ったさつまいもを
入れて、いいかげんになるまで煮たてていく。

お米にこ茶がしみ込んで
肌色になっていく。



夏は冷たいままでも
冷えた白米と合わせても
ソラマメを入れてもおいしい。

茶粥のもとになるほうじ茶。「こちゃ」と呼んでいた。漢字で書くと、わからない。

これに祖母の奈良漬けを合わせると、
何杯も食べられた。

残念ながら、奈良漬けの作り方は
誰にも伝授されていないのだけれど

この「ちゃちゃ」の作り方は
ちゃんと私の身にしみ込んでいたのが
うれしかった。

楽しい時間も
不機嫌なときも
家族がうるさいなと感じたときも

あの茶粥があったことが
ほんとうに愛しい。

そして30年が経った今、
「なんまんだぶ ありがとう ありがとう」が
実は、
幸せを運んでくれる祖母の感謝の言葉であり
毎朝、般若心経を唱えることが
心を洗う祖父のマントラだったのではないか
と思うと、

じわりと満ちるものがあるのです。






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