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人生後半戦は「ギリギリの美学」ではなく…

以前、NHK「チコちゃんに叱られる」という番組で、夏休みの宿題がギリギリになるのはどうしてか、という問いに対して「人間は目先のことは7つくらいしか覚えられないから」と答えていた。

詳しく聞いてみると、人間の記憶には、いつまでも覚えている「長期記憶」と、しばらくすると忘れてしまう「短期記憶」の2つの記憶があり、「長期記憶」は、「自転車の乗り方」や「自分の家の住所」など、生きていくうえで覚えておく必要があるものや、「旅行で楽しかった思い出」など、感情がともなう記憶を指す一方、「短期記憶」は、「朝ごはんを食べる」や「歯磨きをする」や「ひまわりに水をやる」などやり終えたら忘れてしまう記憶を言うらしい。

「今日、夏休みの宿題をやる」という記憶は「今日やること」なので短期記憶に入るけれど、この短期記憶の弱点は、一度に頭で覚えられるのは、7つほどが限界という点。
これにより、「今日やること」のリストが、目先のやらなければいけない「朝ごはんを食べる」や「歯磨きをする」や「ひまわりに水をやる」「友達と遊ぶ」「ゲームをする」「お風呂に入る」などが目先にやることが優先されるているうちに、絶対今日でなくてもいい「今日、夏休みの宿題をやる」はこの記憶のリストから外れてしまうから、というのだ。
ところが、夏休みも終わり頃になると、その日の「短期記憶」の優先順位から「夏休みの宿題」がとうとうランク外にはできなくなり、気がつけば夏休みも残りわずかになっている、とのこと。

この現象を専門的な言葉では「パーキンソンの法則」というらしい。
人間は時間に余裕があると、目いっぱい使ってしまう、というのも同じ現象で、遅刻しないように、いつもより1時間早起きしたのに、結局、家を出るのがギリギリの時間になってしまうのも、この法則とのこと。

夏休みの宿題を残り3日で仕上げてきた私は、私のなまけが原因ではなかったのだ!、とこれを知ったときは自分の不出来を棚に上げ妙に納得していた。

なんの自慢にもならないけれど、ギリギリで間に合わせるのがどちらかと言うと得意。だから、寸分の余裕もなく間に合わせることができることを自分では「ギリギリの美学」と呼んで正当化していた。

ところがところが、ミドルの年代になると、こうはいかないこともあることを痛感する。

「一気に仕上げる」「詰め込んで仕上げる」「超スピードで片づける」というのは、これでもなんとか間に合うかもしれないけれど、タフなエネルギーが必要。

そのエネルギーが使えなくなったらどうしたらいいか。

よくよく考えれば、すべての人がこの「パーキンソンの法則」で夏休みの宿題がギリギリになっているわけではなく、なんなら7月中に宿題を終わらせて8月は心置きなく遊んで夏休みを満喫する同級生だっていたわけで。

思うに。
ギリギリで間に合ってきたこれまでは、なんとかできていたからそれを問題にしてこなかった。けれど今は、「できない自分」を知ることで、「できる自分」になるために必要なことを考えるようになり。
わたしが行きついたのは…

「できるように計画をする」こと。(いや、シンプル~笑)

できると思った計画で、できなくなる時。
それは、自分ができると過信していた、あるいは突発的なことが起こっても対応できるゆとりがない計画にしていたなど、自分と計画の中身があっていないと失敗するのではないか、と。
そして、
もうひとつ大事なのは、瞬発力で解決せず計画で解決するなら「塵も積もれば山となる」の成功体験があるか、積み上げることで得られるものを実感しているか、というのも大事なポイントだと感じたり。

人生を折り返した今、「ギリギリの美学」ではなく「自分ができる範囲でできるように計画する」という習慣をつけているところ。(今さらながらに)


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