見出し画像

立ちまわる人

 私の学生時代や社会人生活の前期(所謂昭和世代)に比べて協調性やコミュニケーション能力がより重要視される時代になったと感じています。
 会社の新卒採用でも「コミュニケーション能力の高い人材を取りたい。」と人事部が声高に言い、事実、私の周りでは協調性の高い「良い子」が増え、会社方針や上司先輩の指示に反発することなく、人あたりや付き合いもいい印象があります。
 会社の方針ややり方に素直に従い、要求することと言えば極論ですが「分かりやすいマニュアルをください。」といったイメージです。
※マニュアルを見て、言われた通りに頑張って対応します。というニュアンス
 一見悪いことではなさそうに思われますが、まずもって、私のような決まり事を疑ってかかる。指示されるより自ら考えて動きたいタイプの人間からすると、世の中いつからこうなったのか。本人たちの本音はどうなのか。そのようなメンバーが増えて組織のパフォーマンスは上がるのか。と疑問に感じてしまいます。要するに違和感を感じていました。
 協調性やコミュニケーション能力は必要であるし、こういった若手は上の世代としても接しやすいし楽、ある意味楽しいのですが、一方で打算的でビジネス上も表面的で核がなく頼りなさも感じます。
 会議での発言や進め方もマニュアル感が強いのですが、この原点は学校教育におけるマニュアル化や協調性第一の風潮があるものと思います。
 協調性とは本来、相手の意見や立場を理解、尊重する思いやりの気持ちや、自分と異なった価値観を認める多様性の概念が含まれていると思うのですが、昨今の協調性は画一性の高い、排他的な要素が強い印象があります。
 この風潮がそこに違和感、生きづらさを感じる子どもたちの不登校に繋がっていることは間違いありませんし、背景には資本主義、新自由主義の増殖があります。
 この重視された協調性は「そうすることが正しい。」と身に染みていることなので、それ自体で個々を批判することは出来ませんが、一方で「そうすることが得する。」という意識とも結びついているため、組織や社会に悪い効果をもたらす危険性があります。
 協調性を利用することで、自分の利益や欲望を満たす、うまく立ちまわる人が「人としてどうあるべきか」や「どのような組織や社会があるべき姿か」🟰「本来あるべき豊かな共同体をどう創造するか」を意識している人よりも優位に立つ組織、社会は本来の全体の発展や幸福といった目的から逸脱して不幸を生みますし、いつしかそのことに疑問を感じないような状況を生じます。
 そう単純ではないと思われるかもしれませんが、実際私の所属していた組織は世間一般以上に協調性や予定調和が上位概念の風土であったため業績が低迷しましたし、昨今の政治の劣化も根底は、協調性重視の中で「立ちまわる人」による少数派、弱者切り捨てが進行した結果であると理解しています。
 「立ちまわる人」に合わせて従う協調性重視の社会ではなく、多様性重視で当事者の方々が困ってることや助けて欲しいことを社会に対して遠慮なく主張出来、そこに手が差し伸べられるような(本来の政治機能であると思います。)本当の意味での協調性のある社会を目指すべきであると思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?