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ベケットは空っぽか?  「ハッピーデイズ」トークイベント採録

ハチス企画では19年1月にアトリエ春風舎で、かもめマシーンでは翌月に横浜のThe CAVEで、それぞれ、サミュエル・ベケットが1961年に執筆した『ハッピーデイズ』を上演する。円丘に埋まった女・ウィニーとその夫・ウィリーの姿を描いたこの作品は、演出家によってさまざまな解釈がなされており、ピーター・ブルックやフレデリック・ワイズマンらもこの作品に向き合ってきた。
上演にあたり、青年団内の企画・ハチス企画の蜂巣もも、かもめマシーンの萩原雄太は、18年に白水社から『ハッピーデイズ』として、新訳を刊行した翻訳家・長島確を迎え、吉祥寺シアターのカフェスペースにてトークイベントを実施。当日は、萩原、蜂巣による自作の簡単なプレゼンテーションの後に、2人が長島に対して翻訳家の観点として、どのようにこの作品を読んだのか、という質問を投げかけながら鼎談は進行した。以下は、その採録である。
なお、上演にあたり、蜂巣は『ハッピーな日々』、萩原は『しあわせな日々』というタイトルを付けているが、採録にあたっては『ハッピーデイズ』に統一している。

ベケットを開く翻訳

ベケット戯曲全集2『ハッピーデイズ 実験演劇集』

萩原 まず、長島さんに翻訳家として、どのような視点からこの作品を翻訳したのかについて伺いたいと思います。僕は、利賀演劇人コンクールでこの作品の第二幕を上演するにあたって、安堂信也・高橋康也訳を使用していました。しかし、「シアターコモンズ'18」でこの作品を上演するにあたり、長島さんによる翻訳を使ったところ、あたかも別の作品であるかのように、戯曲から受ける質感がまるで異なっていることに驚いた。いったい、どのような視点からこの作品を翻訳したのでしょうか?

長島 翻訳って、面白いことに原文よりも先に古びてしまうんです。時代に結びつき、時代を反映しているからこそ古くなってしまう。安堂・高橋訳は大変な役割を果たしてきた翻訳ですが、明らかに古い。60年代の半ばに翻訳され、90年代に『ベスト・オブ・ベケット』が刊行された時には、すでに古かったんです。それをアップデートしなければならないということがひとつのモチベーションになっていました。

また、語感が古くなっているだけでなく、ベケットの場合、不条理演劇のブームによる「手垢」にまみれている。もちろん、それは時代の必然だったのですが、一度、その手垢を洗い流すことが、これから新しく読まれるためには必要だと感じていました。例えるならば、もう一回音源をマスターデータから洗い出し、ノイズを落としていくリマスター版の制作のような感覚ですね。

それともう一つ。この作品に限ったことではありませんが、「長さ」という問題もあります。日本語訳って、たいてい原文よりも長くなってしまうんです。それは、自戒をこめたキツい言い方ですが、翻訳者の怠慢だと思っています。英語なら15分で上演できるテキストが20分も30分もかかってしまったら、上演の体感としては別物ですよね。これは戯曲の翻訳としては致命的です。権利として、同程度の尺で上演できなければダメだと思うんです。テンポは演出や演技で変えるべきで、翻訳がその自由を奪ってはいけない。だから、日本語の呼吸と『ハッピーデイズ』が書かれた英語やフランス語の呼吸は異なりますが、息の量をなるべく合わせて翻訳をすることを考えていました。

蜂巣 長島さんの翻訳した『ハッピーデイズ』を読んでいると、歯切れのいい「リズム感」を感じられます。それも意識したことでしょうか?

長島 翻訳の文体でリズムを作ろうとした、というよりも、「実際に発話する時に、こうは言わないだろう」「これは明らかに説明的だろう」という言葉を極力排除した結果、シンプルに言いやすくなっているのではないかと思います。「翻訳調」の文体では、「意味は合っているけれども、口ではそうは言わない」という言葉を使いがちですよね。

萩原 昨年、僕はこの作品を上演するにあたって「シンプルな恋愛劇」に捉え、蜂巣さんは今回の上演において「軽さ」にフォーカスしている。これは、この翻訳だからこそなし得た部分であるように思います。長島さんにとって、この作品における「シンプルさ」とは時代が要請するものなのでしょうか?

長島 これまで、ベケットは暗く、重く読まれすぎていたと思います。そういう読み方を否定をするつもりはありませんが、そうではない読みにも開かれているべきではないか。暗く、重くない読みに対して、ドアを閉ざさないようにしなければならないと考えていました。ベケットの書くテキストには、ボケ・ツッコミもあるし、セルフツッコミだらけ。しかし、「実存主義」「不条理演劇」というキーワードの中で、重い部分ばかりが強調されすぎたんです。

萩原 確かに、ベケットのイメージは、重く・暗いものでしたね。以前の安堂・高橋訳には膨大な注釈がついていましたが、僕が驚いたのは、「子宮のことを覚えている」というミルドレッドの話の注釈として「噂によれば、ベケットも母の胎内にいたときのことを覚えていると言った」と書かれていたこと。注釈ってこう言うことか? ってびっくりしたんです(笑)。一方、長島訳による『ハッピーデイズ』を読むと、とても風通しがよく、「これでいいのか!?」と驚きました。

長島 今回の翻訳では、地名や固有名など、あったほうが演出家や俳優がムダに悩まないで済むような部分を除いて、基本的に注釈を付けていないんです。特に、解釈に関しての注釈は外しました。ベケットに限ったことではありませんが、正しい解釈、正しい答えがあり、予備知識がないと読めないというものではありません。そもそも原文に注はないですし。背景を全部無視していいわけではありませんが、背景に引きずられすぎるのはよくないですよね。やたらと注釈をつけると、どうしても重たい印象になり、使いづらくなる。そんな重さを脱ぎ捨てたいと思ったんです。

ベケットは空っぽ ―二人の演出の現場から―

ハチス企画『ハッピーな日々』チラシ画像

蜂巣 注釈の必要性については、俳優がどのように演じるかに影響してくるのではないかと思います。注釈が必要な難しい言葉を使わなければならない場合、演出家は言葉の意味が通って見えるように仕掛け、俳優は言葉の伝え方に取り組む。長島訳では、注釈がないことによって、そんな重さから開放され、べつのことに集中する事ができますね。

『ハッピーデイズ』で言えば、序盤にウィニーは日常の作業を行います。これは、難しく捉える必要も、堅苦しくする必要もなく、本当にシンプルに朝の作業をすればいいということに気づきました。萩原さんは安堂・高橋訳でも上演をしていますが、翻訳によって言葉の捉え方は異なるのでしょうか?

萩原 以前「しあわせな日々」を上演したTheatre Company ARICAの演出家・ 藤田康城さんは、この作品の「音楽的なリズム」について話をしていました。彼らは、詩人の倉石信乃さんによる翻訳を使っていたのですが、僕が利賀演劇人コンクールにおいて安堂・高橋訳を使っていた時には、正直その「リズム」についてはあまりよくわかっていなかった。「音楽」というよりも、徹底的に「文字」という感じがあり、リズムにはあまり注意が払われない。文字をなんとか身体に落とし込むという作業をしていたように思います。長島訳で上演してみて、はじめて「リズム」ということが体感としてわかりました。発話していると、そこに時間が生まれてくるような感覚を受けたんです。

蜂巣 この作品を稽古していると、ウィニーという一つの背景を背負った「役」を演じることよりも、行為を羅列し、いろんな角度からある一日を実行していく側面が強いように感じます。「ウィニー」という名前の役ですが、もしかしたらそれは「ウィニー」でなくて、「蜂巣」であってもいいかもしれない、抽象的な感覚。

萩原 シアターコモンズで上演する前、僕はよく落語を見に行っていたんです。落語も「役」の主体性は薄いもの。役を表出させるよりも、行為を行うことによって、「役」がついてくるというイメージが近い。逆に言えば、僕らの上演は、ウィニーという人をあまり真面目に引き受けようとしていない、とも言えます。実際、「50歳くらい」という年齢設定や、「ブロンドの髪」という指定についてもあまり気にしていません。しかし、先程のプレゼンテーションの話では、蜂巣さんの上演においては50歳という年齢設定が重要になっている。それはなぜでしょうか?

蜂巣 最初は意識していませんでした。けれど、俳優が台詞を覚え、演技を行った時に、どこかで見たことのあるおばさん、あるいは私の母がやってたこと、過去苦手としていた女性像がオーバーラップしてきて、いま年齢を扱いたい気持ちになりました。50代という年齢設定は自分が作品を上演する時に、無視できないものだったんです。萩原さんは意識されてないんですか?

萩原 僕の場合は、ウィニーというキャラクターを表出させたいわけではなく、円丘に埋まった身体を表出したいと考えています。それによって、相対的にキャラクターの設定を手放していったのではないかと思います。

蜂巣 「手放した」という意味では、私の場合、この作品の状況設定に対する意味付けを手放しました。ウィニーが埋まっているこの状況は、例えば、経済破綻した国に置き換えられる。ふたりとも家や職も失って、家族に対しての愛情がわからなくなってしまった……。そんな意味づけによって、この作品を読解できると思い、それに取り組んだこともありますが、状況が完全に符合しても、収まり良すぎて演出家として向き合えるテーマではありませんでした。

長島 ベケットって、「空っぽ」な書き方をしているんです。それは本人の戦略でもあり、限界でもある部分だと思います。『ゴドーを待ちながら』だったら、「ゴドーが誰なのか?」という疑問には絶対に答えはありません。それは空っぽの器のようなもの。見た人がそこに何かを放り込み、意味深なことを考えられる。それが豊かさに繋がるんです。

『ハッピーデイズ』も、埋まっているという状況はとても面白いのですが、じゃあ、それが何なのか? という答えについては、多分空っぽのまま。それは、見る人や演じる人が、埋めたり、埋めなかったりするものです。多田淳之介さんが演出した時には、汚染土が入っているかのような、山積みの黒いビニール袋に埋まった『ハッピーデイズ』でした。それによって、現代の状況に通じるエグさが見えてくる。翻訳家としては、自分がその空っぽさは埋めてはいけない、答えを決めてはいけないと考えています。

蜂巣 それはとても難しい作業ですよね。中心軸から言葉を定めていくなら正解を見つけやすいけれど、中心軸が空っぽだとすると、言葉はどのように選んでいくのでしょうか?

長島 ベケットは、リアリストで即物的であり、じつはそれ以外には書けなかった人だと思います。おそらく、ベケットには地面に埋まっている人を空想で書くことはできなかった。書くことができるとしたら、毎日、時間が来たら舞台装置に埋まってその日のパフォーマンスを決まった段取りで遂行し、「次は何だっけ?」と、ルーティーンで演じる俳優のアクション。彼は、その即物的なリアリズムで書いているのではないでしょうか。しかし、そのまま書くと作品にならないから、地面に埋まっている女という大技のファンタジーと結合させて、この物語を作っている。

地面に埋まっていることが何を表すかという意味では空っぽですが、何を軸に書いていたのかというと、本当に舞台に埋まりながら、いろいろなことを思い出している俳優の姿じゃないかと思います。そのリアリティが彼が書く時の頼りだったのではないかと思うんです。

萩原 別の作品でも?

長島 ほとんど全部そうだと思います。

萩原 『エレウテリア(自由)』は、『ゴドーを待ちながら』以前に書かれたベケットによる最初の戯曲ですが、彼は、この作品を失敗作とみなし、出版も上演も望まなかった。この作品には、「観客」訳が登場し、プロンプターの存在も書き込まれ、ダイレクトに劇場が描かれます。長島さんが言う「大技」が繰り出されていないという意味で、ベケットは「失敗」とみなしていたのかもしれないですね。

長島 ベケットの作品は、ことごとくワンパターンなんです。ただ、俳優の身体や生理に関してすごくよくわかっていて、それに対して意地悪をしたり優しくしたりしている。そんな作家だと思います。だから、常に出発点として、俳優がやらされることと、物語の中の人物の状況は一致する。舞台セットなのか、ファンタジーの中の焼け野原に埋まっているのかはさておき、即物的な体感と人物の状況を基本的に一致させ、その上で微妙に現実とファンタジーをずらすことで変な効果を出したりしている。

その前提を抜きにして訳してしまうと、意味深で深刻なよくわからない話になってしまうし、意味がつながらなくなってしまう。即物的なことをバカみたいに話しているのに、実存的なメッセージがあるように読めてしまうんです。本当にそこにあるもの、今ある状況をいかに忘れないかがベケットを上演する上での出発点になると思います。

蜂巣 『ハッピーデイズ』には、さまざまな古典が引用されていますが、これを翻訳するにあたって、どのように言葉を選んだのでしょうか?

長島 結構迷いましたね。特に、ウィニーは不正確に詩や台詞を思い出します。その状況に合わせてシェイクスピアや聖書の引用しようとするけれども、間違っていたり、うろ覚えだったりする。そして、ベケット自身、『ハッピーデイズ』の英語版を執筆した後にフランス語に翻訳した時には、この引用を差し替えているんです。英語ではシェイクスピアだったのに、フランス語ではラシーヌになっているところもあります。

ここに、ベケットの最も面白い矛盾があります。彼は、英語ネイティブであると同時に、フランス語でも書くことができた。だから最初は他の人に翻訳を任せたり、共訳をしたりしていたのですが、他人の翻訳に満足できなくて、自分で翻訳するようになっていくんです。そして、英語・フランス語の2カ国語のバージョンができます。

普通、作家本人が書いたものがオリジナルで、翻訳者による翻訳はあくまでも翻訳という扱いですよね。しかし、ベケットの場合、本人が翻訳したせいで、後から生まれたものが「劣る」とは言えなくなってしまった。本人によるオリジナルが2つあるんです。その結果、2つ目がOKなら3つ目もOKなのではないかという可能性まで開かれてしまったんじゃないか。一か国語に依存しない、複数のバージョンがありえることを、作家本人が保証してしまっているんです。

英語ではシェイクスピアを引用し、フランス語ではラシーヌを引用しているなら、日本語では何を引用するのか……。一時は、全ての引用を日本の古典に差し替えられないかと考えていた時期もありました。『ハムレット』のオフィーリアの台詞を引用して「おう、悲しい。昔を見た目で今を見るとは」という箇所は、平家物語における平知盛の台詞「見るべき程の事は見つ」ではどうだろう、とか(笑)。ただ、翻訳としては完全に越権行為なので、それは結局断念しました。

ベケットに「踏み込む」

かもめマシーン『しあわせな日々』舞台写真

ーー(参加者)『ハッピーデイズ』を上演するにあたって、演出家は空っぽを残す必要があるでしょうか? 上演する場合、どうしても意味を求めようとしたり、空っぽを埋めようとしてしまうのではないかと思うのですが……。

長島 僕はどちらでもありだと思います。空っぽを埋めるのであれば戦略的に埋めるべきだし、埋めないなら埋めないやり方もある。この質問はとても大切な指摘だと思います。僕自身、大学生の頃からベケットが好きで勉強したり翻訳をしていたりしたんですが、ある時期、本当にベケットが嫌だと思って決別したんです。ベケットは、演出の領域にものすごく立ち入っている作家ですよね。演出に対して、俳優に対して制約をかけすぎることがとても気に入らなかったし、実は、今も気に入らない(笑)。

『ハッピーデイズ』で言えば、地面に埋まっているという異様な状況さえ外せば、夫婦漫才のような夫婦モノ。話自体はほとんど新劇です。それを地面に埋まっているという異様な状況と結合させるのが、ベケットの発明です。けれども、地面に埋めるというアイデアは、今の感覚では演出家や装置のプランですよね。演出プランとして、チェーホフの『煙草の害について』を地面に埋めて上演することはありえる。そこを作家に先に決められてしまったら、演出家は何をするのか?

後期の作品になると、作品の中身と演出への指定がさらにタイトになり、演出の領分をますます食い荒らしていきます。その結果、ト書きの指示に従えば、誰がやっても80点は取れる。けれども、120点や150点は出ない書き方になってしまいます。そのことが、ドラマトゥルクとしても働く僕には気に入らないんです。これは戯曲としてやりすぎだ、演出家や俳優の自由がもっとあるべきだと考え、10数年前に一度決別したんです。

でも、時代を経て、もう一度距離をとって、ベケット作品と演出との距離を考え直せるようになってきました。僕としては、演出家や俳優の方がどんどんと踏み込んでいって、ベケット作品に対していろんな負荷をかけていくべきだと思っています。その方が戯曲のためでもある。空っぽであることが面白さであるけども、そうではないチャレンジもあるべき。社会を考えさせるという方法もありうるし、身体のグルーヴがおもしろいという上演もあり得る。その可能性は開かれていると思います。

萩原 この作品では、精緻に俳優の動きや舞台セット、音楽が規定されている。すると、「演出とは何か?」ということが試されているような気がします。この作品を上演するにあたって、たまたま上演時期が近いということもあり、蜂巣さんとこのようなトークイベントを行いましたが、他の作品だったら、上演の前に他の演出家とこうやって喋ろうとは思わないかもしれない。しかし、『ハッピーデイズ』という作品は詳細に身振りが規定され、かつベケットの著作権管理団体の規定によって、戯曲に忠実でなければならないと厳命される。では、この狭い自由度のどこに「演出」を見るのか?

言い換えれば、『ハッピーデイズ』という作品は、自分が何を「演劇」と思っているのかについて、別の作品以上に向き合わせられてしまうものだと思います。『ハッピーデイズ』を「演出」として成立させるためには、自分にとっての演劇の原理にまで遡らなければならない。遡った時に、僕の場合であれば「身体」をいちばん信じているということをさらけ出させられてしまった、という感覚です。

蜂巣 最後に、長島さんに質問をさせてください。『ハッピーデイズ』には、「昔っぽい」という台詞が何回も出てきます。安堂・高橋訳だと「昔ふうだこと」「昔ふうの言い方ね」など、いくつかのバリエーションがありますが、長島訳では、全てのポイントで「昔っぽい」という言い方に統一されている。これはなぜでしょうか?

長島 基本的には、「昔っぽい」に限らず、原文で同じ言葉であれば、徹底的に同じ言葉にしたいと思っています。戯曲には構造があり、同じセリフをくりかえし使用することによって、韻を踏んでいるようなもの。翻訳者が別の言葉にしてしまうと、その構造が壊れてしまうんです。『ハッピーデイズ』で言えば、「で、それから?」という言葉もそうですね。ベケットは、そこで作品が分節化できるように書いているんです。

「昔っぽい!」の原文である「old style」という言葉は、短い一言で、ニュアンスもあまりない。このoldを「昔」にするか「古い」にするかで迷いました。意味としては「古い言い方!」とも言うことができますよね。では、この作品のテーマは、昔を引きずっていることなのか、それとも古びているということなのか。その2つを比較し、今回は前者を選びました。ウィニーは昔を思い出し、昔の記憶をもてあそんでいるのではないか。そこから、昔っぽいという言葉を選んだんです。

蜂巣 「昔っぽい」という言葉は、リズムよく台詞が進むのを断ち切るように入り、そこからさらに言葉が展開するという構造の台詞です。そのため読んでいると、とても目立ちます。今、お話を伺って、「古い言い方」という言葉を当てると、完全に意味の異なる作品になると思いました。この台詞は、ウィニーが「今」をどう思っているかにつながるものなんですね。

長島 作家は書くときに言葉を選んでいます。その言葉に意味の広がりがある場合、翻訳者は悩みます。訳語を選ぶことで、解釈の可能性が狭まってしまう。しかし、だからといって、複数の意味をぜんぶ取ろうとすると、意図はわかるけどせりふとして使えない翻訳になってしまう。そうならないために、翻訳者も、言葉を選ぶことを引き受けなければなりません。でも翻訳者が選んだ言葉の影には、常に別の選択肢があり得るんです。

2018年12月18日
吉祥寺シアターカフェスペースにて


Profile


長島確

1969年生まれ。東京都出身。ドラマトゥルク・翻訳家。大学院在学中、ベケットの後期散文作品を研究・翻訳するかたわら、字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇に関わるようになる。その後、ドラマトゥルクとして、さまざまな演出家や振付家の作品に参加。近年は演劇の発想やノウハウを劇場外に持ち出すことに興味をもち、アートプロジェクトにも積極的に関わる。訳書にベケット『いざ最悪の方へ』、『新訳ベケット戯曲全集』(監修・共訳)ほか。


萩原雄太

1983年生まれ。演出家、かもめマシーン主宰。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団「第13回AAF戯曲賞」、「利賀演劇人コンクール2016」、浅草キッド『本業』読書感想文コンクールなどを受賞。 手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。2018年、ベルリンで開催された「Theatertreffen International Forum」に参加する。


蜂巣もも

撮影者 吉原洋一『あさしぶ』より

1989年生まれ。京都出身。青年団演出部所属。 京都造形芸術大学舞台芸術学科入学後、演劇とダンスの境はどこにあり、非現実的な身体と言語は果たして共通しているのか、伊藤キムや寺田みさこに師事しながら考え、学ぶ。
2013年からより多くの劇作家に出会うため上京し、こまばアゴラ演劇学校無隣館に所属。『授業』(作 ウージェーヌ・イヨネスコ)、『不眠普及』(作 綾門優季)、sons wo:『水』(作 カゲヤマ気象台)、『木に花咲く』(作 別役実)、『愛するとき死ぬとき』(作 フリッツ・カーター)など古典から現代の作家まで、広く上演を行う。