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美しい歌声の持ち主

音楽家を志す若者の集う、街はずれの学び舎での出来事。

その建物自体が腕のいい建築家の作品であり、外観はもちろんのこと、一歩その中に入ると、軽井沢かどこかの瀟洒なコテージにいるような気分になる。無駄のないデザインの化粧室は、明るく清潔で、都市のデパートのそれを思わせる。その日はめずらしく満室で、しばしの間、個室が空くのを待つことになった。手持ち無沙汰を感じ始めて数秒後、とてつもなく美しい歌声が響いていることに気がついた。頭の前方、上20㎝あたりを、細く透明な音色が、一本の線になって通っていくように。透き通るガラス製のスリムな筒は、ところどころ実になめらかに波打った形をしていて、過不足なく、絶妙な濃さと薄さで色付けがされていた、そういう歌声だったのである。用を足すのを待っているということさえ忘れられるような、たいへん豊かな時間であった。やがて、その美しい声の持ち主が姿を現した。一室から出てきたその人物は、私と目の合ったほんのひとときだけ、少し丸い目で動きを止めたかに見えた。しかし、その歌声は続いたままであった。迷いなく口ずさみ続け、その人は微笑んだ。透明で豊かな色をたたえた声で歌いながら、自然な笑顔を向けて通り過ぎたのだった。笑ってごまかすのではなく、不敵な笑みでけん制するのでもなく、挨拶をするようにやわらかく笑い、立ち去った。その振る舞いは、歌声と同じように清々しく心地よい印象を残していた。つややかな残り香のような、すばらしい気配だけが、その空間を占めているようであった。

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