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フランクルは言った、行動する自由について

文字に起こした先から、言葉はその意味合いを少しだけ変えてしまう。

ついさっきまで見ていた夢のように、そのイメージの気配だけを残り香として。

それでも、ことばの絵の具で描くように、想う世界を創ることにした。

雑味が入って濁らないように、集中して、慎重に。

でき得る限り、クリアな状態にしておく必要がある。

凄まじい努力とたくさんの工夫を要するが、慣れてしまえば悪くない。

目にするものも、耳にするものも、味わうものも、触れるものも、香るものも、みんな栄養にして、発芽させられるように。

文章にしたいことが多すぎて、トピックのメモが積み重なる。

文章という形にすることにこだわるあまり、味わいつくすことの楽しさが少し置き去りになっていたのかもしれない。文章にすることそのものを味わいつくすという試みを始めてみることにした。

6年ほど前に、旧友を訪ねて旅した日のことを思い出した。

日本の南島は、早くも海開きの季節を迎えていた。十数日前に沖縄本島を訪れて、オーラ写真なるものを撮ってみたことを伝えると、興味を示した旧友は同じような体験のできるサロンに行こうと私を誘った。パワースポットやスピリチュアルといった、なんだか不思議で魅惑的な世界観を常に持っているわけではないが、「旅先で、いつもはしないことをしてみる」ということにはまっていた。耳慣れない面白そうなものには何でも参加したがったのが、そのころの自分だった。

旧友は言った。

「楽しいのがいいね、したいことはなんでもしたらいいね!」

実のところ、学生時代、彼女とは最も親しい間柄というわけではなかった。

数少ない、同じ釜の飯を食った仲間たちのうちの一人だった。何度か、2人で深い話をする場面もあって、波長の合う感じはしていた。それが未来予測だったとは、もちろん気づかずにいた。私がその島を離れてから数年後の訪問のとき、近況を語り合ったところから現在のような付き合いが始まった。話が止まらないときもあれば、だまったまま同じ部屋にいることもある。気兼ねなくいられることに変わりはない。

すっかり、旧友の話題になってしまっているが、大変充実した心持ちなので続けることにする。彼女はわずかに年上である。学生時代には、同学年同い年の私たちをたしなめるといったシチュエーションもめずらしくはなく、「しっかり者」のイメージが強かったように思う。誤解のないように記しておくが、しっかり者でないとは言わない。だが、それにも勝る勢いで彼女は「おもしろい」人物なのだ。長時間の睡眠が必要で、朝に弱く、よく食べ、勢いよく喋り、軽快に笑い、世話好きで、繊細で、それでいて気は強い。礼儀とマナーを重んじる社会動物、人間としての社会性が備わっているにもかかわらず、子どものように素直に、動物のように本能的に、瞬間瞬間を生きている。

姉妹のようにラフな気持ちで過ごせるのも事実、年長者としての彼女に対して尊敬の念があるのも事実。ほんとうに落ち込んで、エネルギーが低下している真っ只中にはきっと一人でやり過ごしているであろう彼女の、行儀のよさというのか、美しい節度ともいうのか、そういった静かな強さには感銘を受ける。ただ逞しいのではなく、ただ生きようとする野生動物のような、よけいなものを含まないまじめさ。

だから、上記の台詞を聞いたときに私は心から嬉しく思った。

楽しい気持ちでいたいという欲求は、栄養的な視点のみでなく視覚も喜ばせる美味しい食事や、美しい音楽や、きれいな街並みや、写真を撮ったり飾ったりする行為や、そういったものを創りだす素なのだ。

彼女がそれを言ったのは、滞在中のアクティビティのことだけではなかった。仕事や、その他のいろいろなことがらについての話だった。そういう気持ちで働けば、生産されるものもきっといいものだ。そうも言っていられないと割り切ってしまわないところに、新しいアイデアや、みんなが気持ちよく働く工夫の種がたくさん詰まっているに違いない。雨の日も、頭痛の日も、失くしものの日も、なんだかついてない日も、楽しい気持ちでいたいと思ってもいけないなんて、誰が決めたわけでもない。

フランクルは言った、「どのような状況になろうとも人間にはひとつだけ自由が残されている。それはどう行動するかだ」と。

茨木のり子は言った、「自分の感受性くらい、自分で守れ。ばかものよ」と。

その島を訪れると、私は彼女の家を主な拠点として過ごすので、とても長い時間を共有することになる。2週間以上の滞在でも、初日の晩に夜更かしをしてしまうのが定番の”旅の幕開け”だ。旅客機の窓際よりも、到着した空港の湿った風よりも、彼女の家の多少くたびれたフローリングを素足で踏んだときに私は思う、「また来たなあ」と。コーヒーを飲まない彼女の淹れる美味しいお茶と、開け放った窓から見えるキビ畑の若いグリーンを、いつでも取り出して思い出せる。取り立てて観光もしない、天気しだいでは外にも出ない、下手したら海にも入らない。それでも、安らぎに満ちたその空間で、私は極上のバカンスを過ごしている。その土地の自然の持つどっしりとした力と、そこに暮らす人の波動が、訪れた人をHAPPYにする場を創っている。人ひとりの人生には、いつだっていろいろなことが起こって、いろいろなものが降りかかる。持って生まれたものも、遭遇する出来事も数限りない。それでも、ひとりひとりが日々こつこつと蓄えて、あきらめずに生み続けているなにかよきものが、そういう場を創っている。

仕事の移行と生活の変化、新しい活動のスタートで、忙しくなった。しばらくの間、島を訪れる機会を持っていない。渇望してその場に行かなくても、底から沸くような「居心地のよさ」という感覚を身体全体で憶えている。いい思い出があると、人は強い。味わったことのある「あの感じ」を求めて巣を整えるし、まだ見ぬ「あの感じ」に憧れて場を飾るだろう。それでも、実際の体感にはかなわないので、少ししたらまた行ってみようと思う、晴れた土曜の午後。

言葉が命を持ち、現実を未来に運ぶのか。実現することがらを先取りして、言葉に載せるのか。どちらにせよ、文章にした先に道が繋がっているのは確かなようだ。一寸先を、随分先を、手にしたライトで照らすように、文字に起こす。

楽しいのがいい、したいことをしたらいい。

七色の絵の具で虹の橋を架けて、渡った先はHAPPYの島。

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