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Happy Women's Map 広島県 男装の女親分 麻生イト 女史 / Male-Attired Female Don, Ms. Ito Aso

-『中国新聞』

「しっかり務めを全うせいや」
"Perform your duties diligently."

麻生イト(以登) 女史
Ms. Ito Aso
1876 - 1956
広島県尾道市長江 生誕
Born in Onomiti-city, Hirosima-ken

 麻生イト(以登)女史は、舎弟3000人芸子100名を率いる「男装の女親分」として名を馳せた女性実業家。明治から昭和前期に尾道市・因島で「麻生組」を興して、造船所への口入屋(=人材斡旋業)・船の解体業ならびに、船会社・造船会社の幹部はじめ政治家・文人を接待する料理旅館「麻生旅館」で財を成します。額の大きな刀傷と七三の短髪、黒い鉄砲袖の着物に角帯、夏にはパナマ帽がトレードマーク。
Ms. Ito Aso gained prominence as a female entrepreneur leading 3,000 apprentices and 100 geisha as the "Male-Attired Female Don". She emerged as a prominent figure from the Meiji to the early Showa period in Onomichi City and Innoshima, founding the "Aso Group." Specializing in brokerage for shipyards, ship dismantling, and running a catering inn called the "Aso Ryokan," she amassed wealth by entertaining executives from shipping companies, shipbuilding firms, as well as politicians and literati. Sporting a significant scar on her forehead, a distinct short hairstyle, and dressed in a black kimono with iron-hemmed sleeves and a hakama, she was recognized by her trademark Panama hat during the summer months.

「麻生組創業」
 尾道十四日町(現在の十四日元町から長江のあたり)で煙草屋・宿屋を営んでいた父・麻生林兵衛家と母ヒデの三女として誕生。小学校を卒業後、神戸に養女に出されます。その後、不明となった養母を捜し歩き、料亭の住み込み女中、トンネル工事の事務員として働きながら各地を転々として北海道まで渡ります。縁あって大阪方面に嫁いで娘を産むも、イト曰くまことにつまらない夫で別れます。27歳のイトは子供を連れて近代的な造船業で繁栄する因島へ移り住んで、小さな旅館をはじめます。旅館に出入りするたくさんの造船所関係の人達を世話をするうちに人脈を得たイトは「麻生組」を創業、大阪鉄工所(日立造船の前身)の造船下請け業務・造船所への口入屋(=人材斡旋業)・船の解体業に従事します。工場から要請が入ると、イトは組幹部を招集、資金を渡して各地へ派遣して人材を集めてこさせます。第一次世界大戦での大正バブルで島の造船業は最盛期を迎え、大阪鉄工所因島工場の造船量は全国一に、位麻生組の扱う人数は数百人に膨れあがり、イトを親分のように慕う舎弟は3千人にも及びます。背中に「イ」文字10個で丸く囲んだ中央に「鐵(くろがね)」の一文字が鮮やかに映える麻生組の法被をまとった荒くれ者達をイトはよく面倒をみながら束ねます。続いて、大阪鉄工所の初代工場長の厚い信頼を受けたイトは、島ではじめて船主らをもてなす料理旅館「麻生旅館」を開業して繁盛させます。10室以上の部屋はいつも満室、芸子は100人を超え、進水式は続き、船会社の幹部と造船所の幹部たちの宴会が続きます。手腕が広く認められ、憲政の神様と言われる尾崎行雄・人情大臣と呼ばれる望月圭介はじめ政界人、ならびに俳句革新運動を主導する河東碧梧桐・新進女流作家の林芙美子はじめ文化人達、日本海員組合創設者・濱田国太郎はじめ労働運動家など幅広く親交を育みます。大阪鉄工所の迎賓館として村上水軍の本城・長崎城跡地に城山倶楽部(現在のホテルナティーク城山)の経営も手掛けます。

「男装の女親分」
 1917年(大正6年)1月16日付『中国新聞』「女侠客殺し(未遂)」にイトの記事が出ます。ある日、監獄を出たばかりの昔の輩下がイトを訪ねてきて口論になります。電気工事の代金支払いを巡るトラブルがこじれ、油断したイトはこの元電気職工に日本刀と短刀で襲われ、頭をざっくり割られ背中と肩にも傷を負いながらひるむことなく押さえつけます。イトはこの職工のために減刑を請い、刑務所に差し入れをし、出所すると「しっかり務めを全うせいや」と身元引受人となって自分のところで使います。この職工はじめすべてのものがイトに心服、忠誠と誓って身を粉にして働きます。女の恰好では侮られると思ったイトは男装をはじめ、黒い鉄砲袖の着物に角帯、七三に分けた短髪、腰には煙草入れを差し、夏にはパナマ帽を被ります。頭には切りつけられた大きな刀傷、若い女を2・3人連れて、男の付き人に大きな土佐犬を曳かせて、時にはステッキで滅多打ちしながら現場を監督してまわり、「景気はどうの?」といって町中を挨拶してまわります。親分肌のイトの元には多くの人が集い商売は繁盛します。太平洋戦争に突入すると、因島の造船所に多数の学生が勤労動員として配置されてきます。イトは学生たちにご馳走したり面倒をよく見ます。今度は私財で、土生幼稚園(現尾道市立土生幼稚園)の開設、女子実業補習学校ならびに教育資金制度の創設、人工が急増した排水溝の整備に惜しみなく使います。そして因島の南対岸にあたる生名島に土地を買って、観音霊場・山道の整備、三秀園(現在の立石公園)の建設をして一大テーマパークをつくろうとします。晩年のイトは、身内ではなく見込んだシングルマザーに事業を譲り、自分は三秀園に移り住んで別荘の縁側でくつろいで「おじいちゃん」と声をかけてくる子供たちにお菓子・駄賃をくれてやりながら、観音菩薩への信仰と祈りの中で波乱万丈な生涯を閉じます。

—河東碧梧桐『山を水を人を』
「前額から後頭部にかけて、一文字に深い刀疵が・・・髪をジャン切りにして、筒袖に兵児帯。五尺にも足りない小柄ながら、少々四角ばった顔のイカツイ格好にそぐう目の威力が・・・(中略)ぞんざいな関西べらんめいの話しぶりにも耳をかしげる魅力がある。」

-林芙美子『小さい花』
-今東光『悪名』
-村上貢著『しまなみ人物伝』
-勝新太郎主演映画『悪名』シリーズ

-ナティーク城山
-ペーパームーン
-中国新聞

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