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Happy Women's Map 滋賀県 日本初の女帝・摂政 神功皇后 / Japan's First Empress and Regent, Empress Jingu

-月岡芳年筆「日本史略図会 第十五代神功皇后」

「西方有國金銀爲本 目之炎耀種種珍寶多在其國 吾今歸賜其國」
"There are countries in the West whose foundation is gold and silver. There are many treasures that make your eyes shine. I now give them to them."

神功皇后 / 息長帯比売の尊 / 息長帯比売の天皇
370 - 470 頃
滋賀県米原市顔戸 生誕
Born in Yonebaru-city, Shiga-ken

 息長帯比売(おきながたらしひめ)こと神功皇后は日本初の女帝また摂政として約70年間最高権力者として君臨。仲哀天皇崩御後に皇后自ら将軍となって熊襲討伐・三韓征伐を主導。香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)たちを勦滅、実子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)を応神天皇として即位させ、自ら摂政となって国内外で政治手腕を発揮。卑弥呼から1世紀ぶりに中国王朝に遣使して「倭国王」を復活。朝鮮半島南部を軍事支配しながら大陸貿易を促進、鉄素材はじめ軍事物資・技術・先進文物を導入、30氏ちかい帰化人の専門家また技術者集団をとりまとめ日本列島を文明開化させます。
Okinaga Tarashihime, Empress Jingū, stands as Japan's first empress and regent, reigning supreme for nearly seventy years as the paramount authority. Following the demise of Emperor Chuai, she took the helm herself, leading campaigns against the Kumaso and expeditions to the Korean Peninsula. Empress Jingū orchestrated the demise of her own stepsons, Prince Kagosaka and Prince Oshikuma, and ensured the ascension of her son, Homutawake, as Emperor Ōjin. Empress Jingū, assuming the role of regent herself, showcased her political prowess both domestically and abroad. For the first time in a century since Queen Himiko, she dispatched envoys to the Chinese dynasties, thus reviving the title of "King of Wa." While exerting military control over the southern Korean Peninsula, she simultaneously fostered trade with the mainland, introducing various military resources, technologies, and advanced cultural artifacts, starting with iron materials. She consolidated a group of specialists and technicians from nearly thirty immigrant clans, She spearheaded the civilization and modernization of the Japanese archipelago.

「神懸りと熊襲征伐」
 卑弥呼の死後から約120年後、気長帯比売(おきながたらしひめ)は第九代開化天皇の4世の孫である父・息長宿禰王と、天日槍(あめのひぼこ)の5代の孫である母・葛城高額比売(かずらぎのたかぬかひめ)のもと長女として生まれ、幼少のころから聡明で容貌も美しく育ちます。やがて景行天皇の孫であり日本武尊(やまとたけるのみこと)の子である仲哀天皇の皇后となります。
 朝鮮半島で大陸交易の同盟国である百済・伽耶の要請により大量の兵を派遣する一方、国内では新羅の後ろ盾を得た九州の熊襲の叛乱が勃発。皇后は仲哀天皇の九州の熊襲征伐に随伴、穴門豊浦(下関)に皇居を興します。すると新羅の塵輪(翼のある鬼のような人々)が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せます。皇軍は大いに奮戦するも、宮内を守護する阿倍高麿・助麿の兄弟まで相次いで打ち死に、天皇自ら弓矢をとって交戦して撃退します。皇后は天皇ならびに皇軍とともに筑紫の橿日宮(香椎宮)へ移動して神託を行います。仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が審神者(さにわ)として神の言葉を通訳します。皇后に神懸かり「西のほうに国がある。金銀をはじめ、目をかがやかせる種々の宝物が多くある。私がいまその国を与えよう。」仲哀天皇は琴を押し退けて答えます。「高いところに登って西のほうを見ても国は見えない。ただ大海だけだ」皇后に神懸かり「すべてこの国はお前の治めるべき国ではない。お前はこの世の人が行くべきただひとつの道、すなわち死の国へ行け。」武内宿禰が言います。「おそれ多いことです。陛下、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」仲哀天皇は琴をすこし引きよせてしぶしぶ弾くと、まもなく琴の音が聞こえなくなり不思議なことに天皇は崩御。皇后は天皇の喪を匿したまま武内宿禰に豊浦宮で殯斂させ、自ら小山田邑(福岡県粕屋郡)につくらせた斎宮に入ります。吉備鴨別を派遣して熊襲征伐を続行。皇后自ら層増岐野で強健な熊鷲一族を討ちとり、さらに筑後川下流域の山門県で土蜘蛛族の女酋・田油津媛を討ちとります。

「大祓と三韓征伐」
 皇后は神をなだめるために国中で大祓を行います。豊浦の殯宮に坐して、更に國の大幣を取りて,生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸の罪(農耕・共同体社会の妨害)、上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚・の罪(反社会的な性関係)の類を種種求めて国中を清めます。そして武内宿禰を審神者として伴って再び神託を請けます。皇后に神懸ると「すべてこの国は皇后の御腹においでになる御子が治めなさい」「我らは住吉三神。あの国(新羅)を求めるならば、天地・山海河の神にもれなく幣帛を奉り、わが御魂を軍船の上に祭り、真木の灰をひょうたんに入れ、箸と皿を数多く作って大海に浮かべ散らしてから渡りなさい」。すぐさま皇后は西諸国から船舶と兵士を集め、軍規と褒賞を定めて士気を高めます。角髪を結って男装、妊娠中のお腹に石を当ててさらしを巻き(月延石・鎮懐石)、自ら斧鉞を取って将軍となり兵を率います。筑紫から玄界灘を渡り、軍の船団は海に満ち、旌旗は日に輝き、鼓吹の音山川をことごとく震わせながら山に登らんばかりの勢いで攻めます。新羅王は降伏、微叱己知波珍干岐を人質として差し出し、船の腹また舵を乾かすことなく、馬・馬繰り工人はじめ金・銀・彩色のもの、綾織・羅織・縑の絹、男女を八十艘の船に載せて貢ぐことを約束します。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、持っていた矛を新羅の王の門にたてて宗主の印とます。百済も直支王の人質はじめ七枝刀一口・七子鏡一面および種々の重宝を献上、朝貢を約束します。皇后は新羅に馬飼部(馬の供給先)、百済国に渡屯家のちの内官家(外交・交易部門)を定め、海表の蕃屏(海外の属国)とします。

「忍熊王との戦い」
 帰国後、皇后は筑紫・宇美で誉田別尊を出産します。仲哀天皇と大中姫命の長男次男である麛坂王・忍熊王らは、播磨・赤石に仲哀天皇陵を造営するとして、船団を編成して淡路島に乗り入れ、石を運び出す屈強な男達をもれなく兵に取り立てて皇后を待ち構えます。麛坂王・忍熊王ら東国の挙兵の動きを察知した皇后は、強健な西国の兵を集めつつ一計を案じます。御子は既に崩じてしまったとの噂を流し、葬船を仕立てて帰途につきます。軍勢が待ちうけるたところに到着した葬船から兵を降ろす意表をついて戦闘開始。まもなく武内宿禰や武振熊命を派遣して、皇后は崩御したとして偽りの和睦を申し出ます。皇后軍兵に弓の弦を切らせ剣を捨てさせます。敵軍が応じると、再び号令をかけて予備の兵器で反撃、逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追い詰め討ち取ります。都に帰還した皇后は、祝いの酒宴を催します。「この神酒は私は作らず、奇しき酒の司、常世に坐す少名御神が祝い狂い、祝ぎ回り、 進呈され届いた神酒です。飲み干しなさいませ。さあ。」建内宿祢命は返歌を詠みます。「この神酒を醸した人は、臼を鼓にして打ち、歌いながら醸したかも。 舞いながら醸したかも。この神酒で、まことに歌を楽しもう。さあ。」皇后は磐余若桜宮に遷都、誉田別尊を太子とし、自ら摂政となります。

「広開土王との闘い」
 新羅王は倭に使者を派遣して、 先に人質とした微叱許智伐旱の一時帰国を請わせます。皇后はこの申し出を受け入れ、武内宿禰の息子・葛城襲津彦を付き添いとして派遣するも、新羅の使者は密かに別の船で微叱許智伐旱を新羅に逃がします。やがて新羅は拝朝せず、高句麗の広開土王(好太王)の庇護を求めます。皇太后は葛城襲津彦を新羅に派遣、高句麗軍5万の騎馬兵に押され任那・加羅まで敗退するも、同盟国の安羅軍らが逆を突いて新羅の王都を奪取します。それでも新羅は倭国に朝貢せず、皇太后は葛城襲津彦(沙至比跪)を派遣すると、新羅が用意したハニートラップにかかり、あろうことか同盟国である加羅国を伐ちます。加羅国王は人民を率いて百済に亡命。皇后は木羅斤資を派遣、新羅と葛城襲津彦(沙至比跪)を討ち、兵を加羅に集めて国を再興します。再び高句麗の庇護を得た新羅は、今度は朝貢の際に百済の貢物を奪います。皇后は、将軍荒田別・鹿我別を卓淳国へ派遣、ならびに百済の将軍木羅斤資・沙沙奴跪・沙白・蓋盧らに合流を命じて、新羅を再び征伐します。続いて高句麗の領土の一部である帯方界に攻め入り、広開土王の5万の歩兵・騎馬兵と激戦を繰り広げます。比自㶱、南加羅、㖨国、安羅、多羅、卓淳、加羅の七カ国を平定。さらに西方に軍を進めて、比利、辟中、布弥支、半古の四つの邑を落とします。

「倭国王の復活」
 421年(永初2)皇后は中国新王朝・宋に遣使、応神天皇こと倭王・讃は「使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」を願い出るも「安東将軍・倭国王」の官爵号を授けられます。3世紀の卑弥呼の「親魏倭王」以来1世紀ぶりに「倭国王」が復活。続いて、高句麗王や百済王とともに将軍に任じられた倭王・讃は将軍府を設置、長史(文官)・司馬(軍事) ・参軍を置きます。以降、倭王・讃はじめ倭の五王(倭王讃=応神天皇、倭王珍=仁徳天皇、倭王済=允恭天皇、倭王興=安康天皇または木梨軽の皇子、倭王武=雄略天皇)らは、宋の皇帝の忠実な藩臣として、高句麗の勢力を背景に、外交・交易の拠点である伽耶・百済を中心とする南朝鮮の軍事領土・支配権の交渉のため遣使を続けます。
 皇后は制圧した伽耶から、それまで輸出統制されていた馬具・甲冑・武器はじめ製鉄技術者・金属加工者・馬具職人・陶質土器職人を大量に導入。さらに皇后は平定した慶南・全南地域を百済に与え、この地域勢力たちの仲介のもと交易を始め、大陸の先進文物を取り入れ、有能な人材をこぞって抜擢。列島内また朝鮮半島内で政治・文化・言語・宗教・民族の混血また融合を進めて紛争・戦闘を抑えます。ならびに、百済から服飾工女、馬飼の阿直伎、漢文博士の王仁、養蚕・織絹の職人集団を束ねる弓月君(秦氏の祖)、他にも葛城・巨勢・蘇我・平群・紀・東漢氏など27氏を帰化人とし、帰化人とその子弟・子孫たちを官僚や有力豪族の部下に採用、政治はじめ養蚕業・農業・土木建築・医薬などの産業の先端を担わせます。やがて儒教や仏教の伝来をはじめとする海外文化の大きな恩恵を受けながら、律令制度を整え統一国家の基礎を固めていきます。
 1910年に日本は韓国を併合。そのころ神功皇后の「三韓征伐」をたたえる教育が盛んになるも、1926年の皇統譜令に基づいて皇統譜の歴代天皇から外され、第15代天皇・初の女帝(女性天皇)の記述も抹消されます。

-『新唐書』列伝第145
「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」

-『宋史』列伝第250
「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」

-『常陸国風土記』
「息長帯比売の天皇」

-『扶桑略記』
「第十五代天皇」「神功天皇」「女帝これより始る」

-『住吉大社神代記』
「是の夜、天皇忽ちに病発りて崩りましぬ。是に、皇后と大神(おおかみ)と密事有り。俗、夫婦の密事を通はすと曰ふ。

-『広開土王碑文』
「倭人は、新羅の国境に満ちていた。400年、好太王は軍令を下し、歩騎五万を派遣して、新羅を救った。高句麗軍が、男居城から新羅の国城にいたると、倭がその中に満ちあふれていた。高句麗軍がいたると、倭賊は退去した。しかしその4年後の404年、倭は不軌(無軌道)にも、帯方界(現在の京城以北)に侵入した。」
「好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると、倭寇は壊滅し、(高句麓軍が)斬り殺した(倭賊は)無数であった。407年、好太王は、軍令を下し、歩騎五万を派遣して、合戦して、残らず斬り殺し、獲るところの鎧鉀一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。」

-『日本書紀』「神功皇后紀」
「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そのとき、七枝刀一口・七子鏡一面および種々の重宝を献上した。」
「新羅の王、波沙寐錦は、微叱己知波珍干岐をもって質とした。」
「仲哀天皇九年、爰(ここ)に新羅の王・波沙寐錦(はさむきむ)、皍ち 微叱己知波珍干岐(みしきんはとりかんき)を以て質(むかはり)として、仍りて金・銀・彩色、及び綾(あやきぬ)・羅(うすはた)・縑絹(かとりのきぬ)を齎(もたら)して、八十艘の船に載れて、官軍に從はしむ。」
-『日本書紀』の「応神天皇紀」
「百済の第十六代の王で、直支王のまえの代の阿花王(阿萃王)が、なくなると、阿花王(阿萃王)の長子の直支王は、人質として日本に来ていたが、応神天皇は、「お前(直支王)は、国(百済)にかえって、位をつげ。」と命じた。」
「応神天皇(倭王讃)は東晋の安帝に使いを出した」

-朝鮮歴史書『三国史記』「新羅本紀」
「実聖尼師今元年(402年)3月に、倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。」
-朝鮮歴史書『三国史記』「列伝」
「実聖王元年壬寅の年(402年)に、倭国と講和を結ぶとき、倭王は奈勿王の子、未斯欣を人質にしたいと請うた。王は、かつて奈勿王が自分を高句麗へ人質として送ったことをうらんでいたので、そのうらみを、その子ではらそうと思っていた。そこで、倭王の請いを断わらずに、未斯欣を派遣した。」
-朝鮮歴史書『三国史記』「百済本紀」
「王は、倭国と友好関係を結び、太子の腆支(直支)を人質にした。」
「阿萃王十四年・腆支王元年(405年)腆支は倭にあって(阿萃王の)訃報をきき、哭泣しながら帰国を請うと、倭王は、兵士百人をもって護送させた。」
「腆支王12年(416年)東晋の安帝は、使臣を遣わして、(腆支)王を冊命して、『使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王』にした。」

-『晋書』安帝紀
「義熙9年(413年) 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。」

-『宋書』「夷蛮伝」「百済国」
「義熙12年(416年)、以百済王余映、為使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」
-『宋書』「夷蛮伝」「倭国伝」
「高祖の永初二年(421年)詔して曰く。「倭讚万里貢を修む。遠誠宜しく甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」」
「太祖の元嘉二年(425年)、讚又司馬曹達を遣わして表を奉りて方物を献ず」
「建元元年(479年)が死んで弟のが立った。使いを遣わして貢献した。みずから使持節・都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、上表して除正されるよう求めた。詔してともにゆるした。」

-『梁書』「倭伝」
「晋の安帝(396-418年在位)のとき、倭王があった。が死んで、弟のを立てた。が死んで、子のを立てた。が死んで、子のを立てた。が死んで弟のを立てた。斉(南朝斉)の建元中(高帝479-482年)を、使持節・(都)督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除した。 高祖(南朝梁の武帝、502~549年在位)が即位した。を進めて征東大将軍と号させた。」

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