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Happy Women's Map 神奈川県横浜市 日本初の美容家 山野 千枝子 女史 /Japan's First Beautician, Ms. Chieko Yamano

-『光を求めて―私の美容三十五年史』山野千枝子、サロン・ド・ボーテ1956年


「女性は35歳以上年を取らない」
"Women don't get old after 35"

山野 千枝子 女史
Ms.Chieko Yamano
1895 - 1970年
神奈川県横浜市掃部山 生誕
Born in Yokohama-city, Kanagawa-ken

山野 千枝子 女史は日本の美容家の先駆者。日本にマーセルウェーブならびに美容法を広めた草分け。国産の化粧品・パーマネント機械・美顔機械を開発。ファッションモデルの前身である「マネキンクラブ」を創設。ファッションショーまた美人コンテストを全国で開催しながら最新の髪型・服飾・美容術を普及させます。
Ms. Chieko Yamano is a pioneer of Japanese hairdresser and cosmetologist, who spread Marcel Wave and beauty methods in Japan. She developed domestically produced cosmetics, permanent care machines, and facial beauty machines. She founded the ``Mannequin Club,'' which was the predecessor to fashion modeling, and held fashion shows and beauty contests all over the country to popularize the latest hairstyles, clothing, and beauty techniques.

「横浜」
 千枝子は、鉄道役人の父・三沢覚蔵と、甲斐の豪農の娘である母・ハマのもと5人兄弟の中でただひとり娘として生まれます。白鳥の様に美しい外国の貿易船、貿易美術雑貨また洋装を手掛ける兄たち、山の手にある異人館など、港横浜のエキゾチックな空気に刺激された智恵子は海外へのあこがれと興味を抱きます。戸部小学校の上級生になる頃には、英語の単語帳をいつも懐に忍ばせ、平沼高等女学校への進学を目指します。父親の失業により、鎌倉の師範学校で教員試験を受けたり、三井物産横浜支店の女性事務員の採用試験を受けたりしますが、千枝子は兄に頼み込んで、神戸家政女学校に進学。助手として教壇に立ちながら、大好きな英語の勉強に専念します。まもなく、アメリカの家政総支配人を名乗る山野末松との縁談話を持ち込まれます。「徒手空拳で10万円(現在の1億円)をつくった人です」千枝子は両親の反対を押し切って神社で式を済ませると、アメリカに渡ります。

「アメリカ修行」
 全荷物を盗まれ、千枝子は文字通り裸一貫でサンフランシスコの地に降り立ちます。ニューヨークに着くと、夫は白い台所着を着てせっせと水仕事を始めます。千枝子はトイレに駆け込んでひとしきり泣いてしまうと、アメリカ人銀行家の小間使いの1人として素直に働き始めます。千枝子は寝床の準備と子供の世話を担当。月曜と水曜は洗濯、火曜と土曜はアイロン掛け、木曜は大掃除、金曜は裁縫、家政の日課に従って専門家が見事な腕を揮うのを、千枝子は積極的に学びます。夫と共にブルックリン・ニューヨークを転々としながら生活を築き、神戸の兄の援助を得て美術商雑貨の店「ジャパニーズギフトショップ」を開きます。子育てのかたわら、女性雑誌『婦女会』に寄稿したり、アパートを在留日本人に貸したり、社交クラブでお茶をたてたり日本舞踊を‏披露したりしながら資金をためると、千枝子は世界中の女子が集まるニューヨークのワナメーカービューティースクールに入学。1年かけて卒業すると、メトロポリタンはじめ劇場から回されてくる鬘の手入れに追いまくられながら、師匠の技術を盗み見て最新のカットはじめパーマネントやマーセルウェーブを習得。同僚と独立して化粧品工場に通ったり毛製術・美顔術の勉強会に参加しながら美容院経営を学びます。

「日本の美容開発」
 まもなく千枝子は『婦女会』の婦人会の伝手で、帝国ホテルで海外観光団相手の美容室を開業する約束を取り付けます。ところが帰国すると帝国ホテルは火災にあって計画は白紙に。打ちひしがれる千枝子に『婦女会』社長・戸川竜氏の資金援助が舞い込み、東洋一の丸ビル内でアメリカ式美容院を開業します。当時の日本髪50銭(今の1000円)に対し、マーセルウェーブ・フェイシャル(美顔術)・スキャルプトリートメント(頭皮マッサージ)・マニキュアは1円(2000円)均一、カラー・パーマネント5円(10000円)。着物に調和するマーセル・ウェーブは大流行。芸能人はじめ日本中の女性たちの評判となり廊下は連日見学客で人だかりになります。千枝子は渋谷区に山野美容研究所を創設。浅草橋の日本理髪器具株式会社と協力して、美容器具の国産生産に取り掛かります。続いて、桃谷順天堂はじめ小林コーセーの化粧品開発の顧問を引き受けます。千枝子は日本で初めて紹介した、クレンジング化粧法・アストリンゼント(収れん)化粧水を紹介します。そして、発明家・久和原悦山氏の協力のもと国産パーマ機械・ジャストリーを製作。さらに眼科医・安達八乙氏の協力を得て赤外線美顔術を確立。日本の美容に革命を起こします。

「山野千枝子ビューティー・サロン」 
 千枝子は、1日中幕無しのファッション・ショーとしてマネキン・クラブ(ファッション・モデルの前身)を創設して百貨店協会に派遣をはじめます。左翼運動家の女性に潜入され分裂工作を受けたり、モデルの自殺未遂事件を新聞で非難されたり、自信が尽力した「東京婦人美容協会」から除名されたりしながら、全国各地でファッションショーならびに美人コンテストを開催しながら、髪型・服飾・美容術の講演また実演を広めます。次々と開発する美容技術・美容製品の権益争いに巻き込まれるうちに、戦時中のパーマネント排斥運動を経て敗戦。千枝子は焼き野原になった銀座つづいて横浜で、外国人に慣れた美容家を集めて、アメリカ占領軍婦人たちのための美容室を開業します。すると千枝子は世界一大好きなアメリカ人達の横流しと横領の隠ぺいの為にあらぬ嫌疑をかけられ美容室を追い出されます。千枝子は奮起して、第6回国連総会にオブザーバーとして参加、パリの最新美容を研究して周ります。新橋に「山野千枝子ビューティー・サロン」を開店。続いて渋谷に東京高等美容学校を設立。月に100万円以上を稼ぎ出す女性美容家たちを次々と全国に送り出します。

-『光を求めて―私の美容三十五年史』山野千枝子、サロン・ド・ボーテ1956年
-住田美容専門学校

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