花見団子

秀吉は花見団子の夢を見るか

少し前に花見団子のルーツについて調べた。

「なぜ花見の時期に三色の花見団子を食べるのか?」

そんなどうでもいいこと疑問に思うなんて、よっぽどヒマなのね、と思われてもしかたない。でも、もしそう聞かれたら理由を答えられる? 答えられないでしょ。

結論から言うと、これまた理由や起源は杳としてよくわからない。正攻法で京都の和菓子の組合や大学の先生に問い合わせたりもしたのだが、真相は藪の中だった。

最近になって急に広まった説のひとつに「花見団子は秀吉が醍醐の花見のときに来客をもてなすために考案した。三色の意味は赤が春、緑が夏、白が冬を表していて、秋がないのは飽きがこないように、という意味」というものがある。すごくキャッチーな説ですね。

だいたいこの手の伝説には、秀吉か家康か吉宗あたりがからんでくる。あるいは弘法大師、空海が。

覚えておいてください。そうなると信憑性は一気に怪しくなるのが世の相場ってもんなのである。

果たしてこれがまた全くのデタラメ

まず、秀吉が最晩年に催した一大イベント「醍醐の花見」で花見団子が広まったという記録を探したが、これがやはり見当たらない。当時の様子を描いた図屏風にも、餅を炙る茶屋は描かれているが団子は描かれていない。

北野天満宮のそばには、北野大茶会の折に秀吉からその名を賜ったという「長五郎餅」なる店が今も残っているが、一方、花見団子発祥を名乗る茶屋はというと、少なくとも醍醐に残っているという事実はない。長五郎餅同様に花見団子が(花見だけに華々しく)人々の記憶に残るブレイクを果たしたのなら、元祖を名乗るお店が残っていても良さそうなものだ。

マジメに文献を漁ると、そもそも花見団子の習慣が庶民にも広まったのは江戸時代中期、八代将軍吉宗の頃以降と見るべきだ。

まず、醍醐の花見は北野大茶会とは異なり、厳重な警備のもとクローズドなイベントとして行われたので、そこから庶民に花見団子が広まったと考えるのは無理がある。そしてそこから花見団子の歴史が江戸中期まで途絶えるのは不自然だ。その間花見団子はどこでどうやって伝承されてきたのかって話である。

続いて三色団子の起源だが、これも比較的最近という説が有力。食紅が広まったのは明治以降なので、極端な話、明治以降ではないかとも言われている。江戸時代後期の百科事典ともいうべき「守貞漫稿」には同じ三色の組み合わせである菱餅も昔は緑・白・緑であったと書かれており、そこから類推するに秀吉の頃にすでに三色であったとは考えにくい。

また、いろはカルタに「花より団子」が登場するのは幕末期。幕末(1854~68)に斎藤別岑が書き残した『翟巣漫筆』の慶應二年(1866)の項にある記述によると、「文化頃、北斎のいろはたとへ」であると書かれている。1800年代初頭までのいろはカルタでは「は=針の穴から天のぞく」であった。

これらの証拠を総合すると、どう考えても秀吉が花見団子を考案したとは言えない。花見団子の成立は江戸中期以降、そしてそれが三色になるのは江戸末期〜明治期と考えてよさそうだ。

やはり浮き世の人々はいつの時代も、曖昧な真実よりもキャッチーな通説を好んで広めたがるもののようだ。

ヤマザキのどうってことのない三色団子をニチニチ食べるのが好き。


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