うなぎ

平賀源内、うなぎ売ってないってよ。

土用の丑にはうなぎ、を広めたのは平賀源内……ではありません!

もうすぐ土用の丑。近所のスーパーでは連日「うなうなディスコ」が鮮魚店の冷蔵什器の上の丸っこい小さなラジカセから鳴り響いている。

「土用の丑にうなぎ」という習慣を広めたのは、江戸時代の才人(今でいうマルチタレント、知識人、めんどくさい人)・平賀源内である、という誰でも知っている定番の説があるが、アレも実際のところ全く根も葉もない話だ。ほんとうに大勢の人が信じていて嘆かわしい。皆、その話は忘れて!

まずこの件を平賀源内サイドはどう把握しているのかということで、さぬき市にある平賀源内記念館に問い合わせたことがある(※素性のわからない厄介なおっちゃんの突撃としてではなく、公式に、ある企画の取材として連絡しました)。が、返事もくれなかった。黙して語らずということである。公式には否定もしたくないということかなあ。

この時点でどのぐらい眉唾ものの話かは推して知るべしだが、どれだけ調べても、平賀源内がうなぎ店に頼まれて「土用の丑にうなぎを」というキャンペーンを提案したなんて文献は出てこない

平賀源内がうなぎについて何か語っている文献としては安永3(1774)年「里のをだまき評」のなかで遊女のランクについて語っている文章で、

「吉原へ行き、岡場所へ行くも皆夫々の因縁づく、能いも有り、悪いもあり。江戸前うなぎと旅うなぎ程旨味も違はず」

と書いているぐらいだ。あまり上品な文章ではないが現代のことばに訳すと、「吉原の遊郭へ行っても、よその地元のそういうお店に行っても、いい女もいればそうでないのもいる。江戸前のうなぎと旅うなぎほどにも違わない」というような内容だ(江戸前うなぎとは文字通り江戸の目の前の河口付近で獲れたうなぎ、旅うなぎとは他地方から運ばれてきたうなぎのこと)。読んでわかる通りあくまで女性をうなぎのランクに例えただけで、うなぎそのものについて語っているわけではない。今の時代だといろいろ問題のありそうな記述ですけど、まあ江戸時代ですからね。

もっとも、他の件では平賀源内がお店のキャッチコピーを考えたり、テーマソングを書いたり、というような記録はあるようなので、そのあたりのカリスマ性というかキャラクターの濃さでもって、この人なら土用の丑もきっと考案してそう、という流れになったのだろう。

江戸は背開き、大坂は腹開きの理由

冗長になるので詳細は省くが「江戸は武家社会なので切腹に通じるのを忌み嫌って背開き、大坂は商人文化なので腹を割って話すのを重んじ腹開き」といううなぎの捌き方に関してよく流布している蘊蓄も全くのデタラメ。なぜなら江戸でもうなぎ以外の魚は腹開きにしているし、大坂の商人がそうそう腹を割って話をする訳がない。さらに全国的な背開き・腹開きの分布を調べたこともあるけど、西日本でも九州や四国の方へ行くと背開きにしていることが多い。じゃあ武家社会なのかと言われるとまあまあ違うだろう。

これはむしろうなぎの大きさや焼き方、串の打ち方からより便利な方をチョイスしただけであって、武家だの商人だのは関係ないのが実情である。あるいはその地方にうなぎの蒲焼を広めた最初の人物がどこか別の地方からその技法を輸入しただけだったりもするかもしれない。

本当にうなぎ関連は謎やデマが多い。のらりくらりとして真実がつかめない。うなぎだけに。

おいしいけど。





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