見出し画像

心配ごと。

心配心はどこから来ているのだろうか。ずっと考えていた。

対象は人である。ものに対して心配することもあるけれど、ここでは人への心配心のことを言っている。

対象が未成年であったり、老人であったり、自分では対処できないことが多い人たちへは、心配もする。赤ちゃんならとても心配し、不安に思い、どうしてあげたらと悩むものだ。痴呆を持つ老人の心配もそれは気が気でないだろう。一人でできないことのある人への心配は、思いやりからくるものだと思う。ほんとうに大事に至らなければと心を配る。これらは悪いことではない。

それとは別に、一人でなんとかやっていける人、例えば成人している人への心配心は、どのようなものなのだろうか。

もう成人している自分の子供への心配をする。
恋人の行動への心配をする。
成功するだろうか失敗するだろうか、自分自身への心配をする。
このあたりの心配心は不安や恐れからきていると思われる。



この不安や恐れの本質を、自分ではっきりとわかると、心配心はぐっと減る。

そして、恐れはどのようなものに変化するかというと、『猜疑心』『嫉妬心』『罪悪感』『怒り』『不満』『恐怖心』『お節介』『自虐』『自暴自棄』『ひきこもり』『無表情』など、様々なことが起こる。現象であり、感情である。

そのような悪い現象や感情から対象者のことを心配をしてしまう。

もし恐れの原因を突き止められれば、それぞれの感情が和らいでくるし、現象も消え去るだろう。



心配心のことを考えて一週間以上かかってしまった。わからなかった。多分、理屈ではわかっていたかもしれないが、腑に落ちないでいた。


ある一つの心配心が、ぼくの場合、罪悪感からくるものだった。
同時に罪悪感という恐れの原因に気づけた。
そして、罪を心の中で謝罪した。
確かに心配心の目盛りが下がった。

その罪が正しいものかはわからないし、相手は気にしていないかもしれないけれど、自分の中での罪だったと思う。罪を償うことよりも、罪を認めてまず謝罪する気持ちがとても大事に思った。

また同時に、誰かから何か被害を受けていると感じていたら、心中で相手を許すことで自分自身も楽になることにも気づけた。

心配心は健康を思考を運動を損ねてしまう。
なるだけ、心配心を減らす努力は必要だと感じている。

何に恐れているか、自問自答してみることは難しいかもしれないけれど、それができるようになれば、きっと楽しい時間を送れるだろう。


#エッセイ #コラム #久しぶり #人生 #生き方 #心配  

読んでいただいてありがとうございます。 サポートいただけるとほんとうに嬉しいです。 記事作りの役に立てたいと思います。