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不幸の思いを断ち切りたい人へ。

今、ハッピーと思える瞬間の積み重ね。

これが人生をしあわせにする。

この世の最後にしあわせだったら、それでいいと思う人がいる。
あの時はとてもしあわせだったと思う人がいる。

さて、思うのはいつなのだろうか。
それは、今この瞬間だろう。
未来に思ったとしても、まだ来ないことなので不確定要素が多すぎる。
過去に思っていたとしても、その時の思いは、今この瞬間では正確でない。


時間って何?

時間というものを認識できるのは、今この瞬間だと思うし、生きている者の固有の感覚が時間の認識だと思う。

時間は長くもあり短くもあり、止まることもある。でもこれは感覚に過ぎない。便宜上24時間というサイクルがあるけれど、感覚の時間は常に変化して必ずしも物理的な時間とは一致しない。

時間の感覚が全くないほど集中していたり、飛んでいたりすることは、生活の中に少なくない。
好きなことをしている時は、時間の感覚はない。
嫌なことをしている時は、時間というものが重くのしかかる。
仕事も、あっという間に終わることもあるが、時計ばかり気にするときもある。

そのような中で、しあわせの時間はどのように作られるのだろうか。


しあわせの定義も難しい

自分がしあわせに思う感覚と他人がしあわせと思う感覚は違って当たり前のことだし、大きさ、深さも随分と違う。同じ経験をしても人それぞれ違う。恐怖、悲しみ、嬉しさ、こういうものの感覚も全く違う。時間の感覚と同じようにである。

それなのに、定義は?と問われても、それは答えられない。
ぼくにとってもしあわせの感覚すら、同じこと体験してもその状況や感覚の精度によって変わっていく。

日頃は普通に食べている食事でも、長い間食べることができないそのあとに一口食してみる。それは大いなるしあわせと感じるかもしれない。

いつもはよく見慣れている花も、いくつかの出来事の関連性で、感覚は変わる。嫌な思いもするけれど、いい思いにもなる。

こうして、人それぞれでしあわせの定義は変わる。
自分の中でも変わる。

このようなことがあるから、人は悩んだり、喜んだり、一喜一憂する。

他人から見ればなんでもないことを、自分自身は非常に悩んでしまう。

それはとても辛いことであるし、誰にも理解されない。

この辛いことの連続が、自分は不幸だと感じ、心を閉ざすことにも繋がるのだろう。


不幸の連続を断ち切りたい。

不幸の連続が続くことは、精神衛生上にもよくない。
体調にも影響する(体調からくることもあるが)
どこかで、一旦休ませる、そして断ち切る。
これができるようになりたいものだ。

心身が雪崩のようにどこかへ行ってしまうことを防ぎたい。
ここにとどまることで、やっと休める。
休むことで断ち切ることも可能になる。

でもどのようにしたら、不幸を中断し心身を休ませることができるのだろうか?


「ここ」にとどまらなければ、休めない。

休むことが大事なのだが、心が流れてしまうと体も休むことができない。
心をここにとどめておくことで、心がベッドの中でゆっくり休める。

心をここにとどめておく方法を知らないと、いつまでたっても、休めない。

こことは、自分の中心である。

心は自分の心臓に近いところにあると思ってもらえればいい。

心が外に行っている、つまり意識が外(他者、物、出来事、会社、学校など)に向くと心も外に出ようとする。

心が頭に行っていると、無駄な不要な考え事を増やしてしまう。

「心ここに在らず」という「ここ」とは身体の中心であり、「今」この瞬間ということでもある。

「ここ」にいることのなんと難しいことなのだろうか。
心は心臓のように自分ではなかなかコントロールできない。
神様や仏様ならどうにかなるかもしれないけれど、心は生まれた時から制御するのは難しい。
「ここ」にとどめておくことは簡単なことではない。


「ここ」とどまらせるのは気持ちでなく身体を使う。

ここまで、時間と心のコントロールは難しいということを書いてみた。

心を自分の中心にとどめ、そして休ませるには、体を使った方がいい。

心が外に向き、フラフラして、「ここ」にとどまるには、身体がしっかりしていることだと、ぼくは考えている。科学的根拠はない。

座禅を組む、瞑想をするなどは、もってのほかだと思ってほしい。
座禅を組んで心が「ここ」にとどめられるのは、修行をしているからできることなのである。

実は、瞑想や座禅がいけないことに気づいた。普通の人が簡単に心を集中させられるかといえば、決してそのようなことはない。

心は集中どころか、外へ外へと向かって行く。さまよう心を作り上げる。
禅を組むのは逆効果なのだ。
嘘だと思ったら、少しタイマーをかけて座を組んで瞑想してみると良い。
心は頭に行き、気がちり、不幸なことを思い出してしまう。
いいことを考えてもそれは無駄なこと、無心にならなければ意味がないからだ。

心を「ここ」にとどめるには、体を動かすことで可能となる。
禅僧が行う修行の一つが、作務である。
作務とは日常の業務のことである。
掃除だと思ってもらえればいい。

お寺は広い、冬は寒く、夏は暑く、秋は落ち葉が舞い、掃除といえども大変な作業である。この作業を日常にこなしているから、禅を組むことが可能なのである。

そのほか、声を出す読経を行い、人里に出て托鉢をする。これも身体を使う仕事だ。

心を「ここ」にとどめておく、最も身近な身体行動が、つまり、掃除なのである。


掃除のメリット

心を休ませるには、途方もない努力がいる。「ここ」心臓の近く、身体の中心に置いておくには、修行ではないが、体を使うことにある。

伊勢神宮に行ったことがあるだろうか。ここの空気感が鳥居をくぐるとがらっと変わるのを毎回感じるのだ。神宮でなくご近所の神社やお寺でもいいけれど、参道や境内が常に清掃されていて綺麗な状態であれば、何かを感じることだろう。(pic=京都御苑)

清々しさ。
凛とした感覚。
心の安らぎ。

掃除された神社仏閣は、特にこのような感覚を受ける。
涙さえ出ることがる。

それは、心がちゃんと機能しているからこそ、感じることができるのだと思う。

掃除と直接は関係ないかもしれないけれど、掃除した後の状態が心を動かし、元に戻すことも可能なのだ。

掃除は自分自身にもメリットがある。
体を動かすというメリットだ。

体を鍛えることになるからだ。
掃除をまともにしてみると、それがよくわかる。
掃き掃除、拭き掃除、整理整頓、トイレ掃除もこれは修行。
体力がついてくる、筋力もついてく。

もちろん掃除でなくてもいい。
できる運動、お相撲さんのシコのようにスクワットをしてみる。腕立て伏せや懸垂でもいい。ラジオ体操も体を十分に使う。ストレッチ。自分一人でできる運動なら、ほぼ無料でお得だ。そうして体を使ってみることも、心を「ここ」におく力となる。

また掃除は邪気を祓う行為だそうだ。
邪気を祓うためにも掃除をする。
禅を組むには邪気は不要だから、お寺の中も隅々まで掃除する。
神社の参道の邪気を払い、お参りに来る人への手助けをしている。

家の掃除、仕事場の掃除、研究室の掃除、自分の部屋の掃除、お店の掃除、これができるようになると、心を「ここ」に置きやすくなる。

掃除してクタクタになれば、心を休ませるが如く、眠りについて心身ともに休まることになるだろう。


心を休ませて、不幸の連続を断ち切る前に

断ち切る前にやってほしいことがある。

それは、ちょっとした「しあわせの時」を挟み込んでほしい。

掃除をし、体力を使って、部屋がとっても綺麗なった時、
「いやあスッキリしたよね」というしあわせ感。
「いつもより食事が美味しいね」というしあわせ感。
「汗かいてシャワーしたらとっても気持ちいいね」というしあわせ感。
「同僚に綺麗にしてくれて助かったよ」と感謝の気持ちを受け取ったしあわせ感。

なんでも構わないから、しあわせな時間を挟み込んでほしい。**

**

この挟み込みが最初のうちは、ポツンポツンとまばらでも構わない。
掃除した後だけでも構わない。
小さなしあわせ感を見つけた時、挟み込んでほしい。

しあわせな時間の挟み込みが不幸の連続を断ち切ることになる。

**しあわせの時間の連続が継続すればしめたもの。

しあわせの人生を送ることも可能になるだろう。**


ぼくは、小さくてもいいから「しあわせの時間」をみなさんに提供して行きたい。

見つけるヒントも。

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