熱狂できないことに覚える切なさとズルさ。



自分が一番恐れているものはなんだろうか?ということについて考えてみた。その話を友人にすると

「うーん。あなたは自分を客観視できないことを一番恐れているから、自分を客観視出来ていない人を嫌うよね」

という回答が返ってきた。わたしはその言葉を聞いて、言葉の意図とは別のところにギクリとした。自分が普段意識してなかったことを、他人から的確に突かれ「客観視できていなかった自分」が浮き彫りになって恥ずかしいという気持ちもこみ上げてきたからだ。

この「客観視」とは厄介なもので、客観視が強化されればされるほど物事に盲目になれない。盲目に、熱狂するという状況こそ客観的視点を捨てているようでなんだか「痛いこと」をしているようなバツの悪さがぼんやり残ってしまう。

そして同時になにかに盲目になること、熱狂している人を羨ましくも感じる。しかし、羨ましいのになぜ熱狂できないのか。わたしはその理由は「防衛」にあると思う。

匿名で誰かを批判するネット文化に馴染み深い私たちは「熱狂している人を嗤う第三者の目」の存在も肌で理解しているし、その第三者からの軽蔑に自分たちが簡単に傷ついてしまうことも知っている。

「他人からどう思われてもいい」といくら口で豪語していても、自分がまっすぐに向き合っていることを多数の人に嗤われると、悲しくなるものだ。

他人からの評価を得ることが目的でなくとも、一生懸命打ち込んだものを嗤われることは悲しいし、やりきれないし、恥ずかしい。

そういった、こちらに非がなくとも起こり得る事故を予防すべく、防衛的になった結果が「客観的視点」をもって自分を俯瞰するという行為なのではないだろうかと、私は思う。

この話は「自分を一番批判しているのは自分自身だから、解放しろ」という結論への序文ではない。

恥をかいたり、傷つくという恐怖心の大きさは人を先回りさせる。先回りして、自分に降りかかりそうな言葉を回収し、並べ立て防衛的な話を組み立てることで「死角がない」楼閣を作っているのだ。

熱狂できない、ということは熱意が足りないのではなく

傷ついたり恥をかくのが怖い、という防衛が強すぎる結果なのだろうか。

そう考えると防衛を忘れるほど、攻撃に走らなければならない状況をつくってみることで熱狂は生まれてくるのかもしれない。


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原田まりる

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