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自分が自分でいられる世界へ

幼い頃から人の話を聴く事が多かった。

友達が語る自身が直面している問題を一緒に考え、彼女の思考を想像し、自分が彼女の立場だったらこうするのかもしれないと率直に伝えていた。

本当に幼い頃は、互いの価値観に差異はほとんどなく、私が導き出した答えのようなものと、友人の語るモヤモヤの正体の間に乖離はあまりなかった。

でも、歳を重ねていくにつれて、人生の様々なステージで優先する事柄が増えていくにつれて、私の答えのようなものはあくまでも私の答えのようなものでしかなくなった。

それにつれて、今目の前にいる人が語る言葉を、ただありのままに聴く事に徹するようになった。

私の価値基準で、ジャッジをしないように心掛けながら。

人生の中でどのような選択をし、何を経験するか、それは個人の自由なのだから。

私には、制限を加えられたり、自由でいられないことがとても不自然に思えるので、今目の前にいる大切な人にも自由でいてもらいたい。

まあ、そもそも、人が人に審判なんて下せるはずもないんだけど。(笑)

人が審判を下してしまう時、自分の中にある恐れを手放すことが難しいのかもしれない。

自分自身の弱い部分を見つめるよりも、他者を攻撃する事の方が容易いと思うのかもしれない。

しかし、どちらも選択の自由でしかない。

私が人をジャッジしてしまいそうになる時、抑圧していた何かを刺激されている場合が多かった。自分に禁じていたことを、他者が自分に許している、他者がやってしまうかもしれないという恐れ。

自己を探求し、絶対的な自身の成長のために生きようと思うのも、他者と比較し、相対的な他者との関係性の中だけで、自分の価値を維持しようと思うのも、どちらも個人の選択の自由でしかない。

どちらがより自分にとって心地が良い状態なのかを知っているのは、自分自身しかいないのだから。

人の話を聴く事が多いのは、今でも変わらない。

それは、「ただ聴く」という存在が、世の中には少し不足しているからなのかもしれないと思ったりもする。

人々は、本当の心の柔らかい部分を語る事を恐れてきたのかもしれない。

今私たちが思っている事は、まだこの世界に存在していないモノだから。

私たちは、この世界に属するモノではないと知っているから。

そして、この世界のモノではない自分が存在することを、まだ許せていない人が多いから。

しかし、これから私たちが創造するモノはこの世界に存在していくことになる。

自分がこの世界に存在することを許す事と同時に。

本当の自分を表現していくと同時に。

この世界は穏やかに変容を遂げる。







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