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女性が女性であるということ

色々めんどくさい事がある。いや、面倒ではないけど、社会的に面倒な事にあえてされている事がある。

男性と女性、それぞれに特徴的な思考の傾向、特徴的な価値観があるということになっている。

子供の頃は、女の子である事にさほど抵抗はなかった。自分の感性をすんなり受け入れて生きていた。

大人になる道程で、何度か「女の子なんだから・・・。」という女性の理想像のようなものを大人たちにリフレインされ、徐々に女性として社会に見せるべき立ち振る舞い、求められる思考性を知っていった。

社会に出てからは、「どうして私は男性に生まれてこなかったのだろう。」と何度も思った。

男性になりたかった訳ではなかったけれど、男性の視点から形成された社会の中で、私の中に元々持たない価値観を後付けで学び、いつも一歩遅れながら進んでいく自分自身を不甲斐なく感じていたから。

仲の良い男友達と仕事の話をすれば、その差は歴然だった。

彼のようにならなければと懸命に学び、少しづつ社会を泳いでいけるようになった。

しかし、さっぱりとした気質を持ち合わせ、潔く生きているのだと思っていた男性社会に、私は足元をすくわれる事になる。

嫉妬は、いかにも自分たちが正義の味方のような振る舞いでやってきた。女性なのだから、女性らしく生きればいいじゃないかと、これまで優しくしてくれていた男性も、手のひらを返したように冷たくなった。

彼らが見せる優しさは、自分が優位に立っていると思える時にのみ発動されるものだと知った。

本当に困った時に力になってくれた男性は、本当に力のある数少ない人たちだけだった。

でも、冷たくなった彼らもこの世界のルールに縛られて、自分の価値を高めて生き延びようと、必死に生きているだけだったのだと今は思う。

男性も、子供の頃から「男の子なんだから・・・。」と言われて育ち、男性としてあるべき姿を刷り込まれて、生きてきたのかもしれないのだから。

これまでは、女性が男性化しなければ社会で泳いでいくことは難しかった。

でも、これからは、そもそも男性がとか、女性がとか、それぞれの思考性を分断して考えること自体が不自然になっていく。

女性の中にも、所謂、男性的と言われる性質があり、男性の中にも、女性的と言われる性質があり、その部分を弱めたり、社会的に必要でないものとされたために発揮する機会がなかっただけで、元々は互いに持ち合わせている性質だと思うからだ。

互いに、互いのあるべき姿みたなものを一度手放し、男性も女性も、本当の自分自身を思い出す時が来ている。

私も、少しづつ、少しづつ、私に還れるように。

自分を取り戻している道程にいる。





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