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そんな夜があってもいい

僕はその日、友人と待ち合わせがあった。普段移動するときは、電車を利用する。冬だから車内に暖房が効いているんだけど、暑くて汗をかいてしまうほどだから、せっかく着てきたダウンを脱ぐ羽目になる。脱いだダウンを丸めて網棚の上に載せてから腰を下ろす。それでもまだ暑いと感じるのだが、電車が停車して扉が開く度に外から入ってくる冷たい空気が、僕の足元を少しだけ冷やしてくれて心地がいい。例えるなら、冬の寒い夜に毛布にくるまって、顔だけ少し寒さを感じる心地よさというか、(最近は使わないけど)こたつに長時間入った時に、暑くなって少しだけ片足を出しておく心地よさというか、そんなものがある。

けど、一度電車から外に出ると、寒さが針になって体を刺してくる。温度差が嬉しいと感じるのは多分サウナくらいだと思う。そんなことを考えながら駅の外に出て、そのまま店に入った。話に夢中で気が付いたら日付を超えていた。僕はそんな夜を過ごした

そこでした話の内容なんて、覚えていなくたって生きていけるし、これからの人生において役に立つことなんてないだろうと思う。きっと自己啓発本なんかを読んでいたほうが役に立つ知識が手に入ったのかもしれない。(実際どのような場面で役に立つのだろう…。)

けど僕は思う、「そんな夜があってもいいじゃないか。」

今日も少し、僕の思い出話を聞いてほしい。

オーストラリアでのロードトリプの1日

ロードトリップなんて言葉は知らなくて、4月に入って当時僕が滞在していたMargaret Riverという南部の町の気温が冬が近づいて下がってきたので、ただ満足のいく気温が見つかるまで北に進んでみることに決めた。結局はKarrathaっていう都市まで行くことになるんだけど、当時はどこまで行くかなんて何もわからなくて、ただ北に延びる一本の道を進んでいた。そんなロードトリップのある1日の話をしたい。

その時僕は、DENHAMという町を出発するところだった。このあたりの地域はShark Bayと呼ばれているんだけど、サメよりもイルカのほうが多いんじゃないのかなって思う。ただ間違いなことは、そこの海が綺麗だということだ。

Shark Bay の海を背景に自撮り

町で済ませることは済ませていた。まずはきれいな海で海水浴をして、その足でシャワーを浴びて洗濯をする。日が出ている時間に済ませないと寒くなってしまうし、洗濯物も乾かない。もちろん洗濯機なんて持ってるわけないから、2日に1回くらいの頻度でパンツとシャツを手で洗う。何度もアボリジニの人たちに怪訝な目で見られた。彼らは差別されていて仕事がない(ことが多い)から、平日の昼間だってみんな暇そうにしている。僕が日本から持ってきたユニクロのパンツと、バンコクで買った偽物のNIKEのシャツは抜群に乾きが良くて、2時間も干していればよかった。ロープを公園の木に引っ掛けて、そこに服を吊るす。洗濯物が乾くまでの間にご飯を済ませたり昼寝をする。僕はその時間がとても好きだった。

町を後にしたら進む道は一本しかない。しかし道はひたすらにまっすぐで、ホラー映画でよくある、同じ光景が何度も繰り返されていると思えるほどに代わり映えがなかった。どこを見渡しても褐色の大地しか目に入らなくて、その上に身長の低い痩せた草(のちに調べたところ、スピニフェックスというらしい)がまばらに生えていて、その奥には地平線が飽きることなく続いている。はじめは興奮したが、数日もすれば見慣れてしまう。美人は3日で飽きるなんてよく言ったものだ。そんな道を数時間、ジブリ音楽を聴いたりおしゃべりをしながら進んでいく。

まっすぐな道とひねくれた友人

ただ不思議なことに、眠くなるということはなかった。僕はいつも友達や家族が運転してくれる車に乗ると、心地よい揺れからどうしても眠くなってしまうことが多い。しかも連日野宿に海水浴にトレッキングをして疲労はたまっているはずだった。それなのに、無機質な風景を見慣れることはあるんだけど、見飽きることはなかった。(それなら美人も飽きないんじゃないのかな。)

日が沈むギリギリ前にキャンプ場に到着する。日が沈んでからも運転をしていると、車の音や光にカンガルーたちが反応して衝突事故を起こしやすくなってしまう。(車を買って2日でカンガルーにぶつかった僕が言うんだから、きっと間違いない。)だからと言って夕方になってすぐの時間帯だと、ハエが多すぎるからこれもいけない。何事も塩梅があるというものだ。

キャンプ場での一枚

車のドアを開けて外に出たら、息を吸い込んで、それを吐きながら大きな伸びをする。昼間と比べたら少しだけ肌寒い。50mほど歩いて、ズボンを下ろして小便をする。キャンプ場っていうよりかは、野営地って言葉のほうがしっくりくるその場所は、非日常的で興奮すると同時に、その殺風景さに僅かに恐怖心も感じられる。車に戻ってKmartで買った砂だらけのテントを出す。僕がテントを組み立てている間、友人はコンロをに鍋を置いて夕飯の準備をはじめる。彼を見ている視線を少し上げると、太陽が沈んだばかりの水平線がその付近の空を赤く染めていて、もう少し顔を上げると、空はまだ青かった。

夕飯を食べたら使った食器を片付ける。まずは乾いたティッシュペーパーで皿全体を拭いて、そのあとウェットティッシュで拭いて除菌(?)をする。
僕はその日の夜に鮮明に覚えていることがある。星と月だ。

食器を片付け終わったところでふと空を見上げると、星が見えた。僕はいつかチリ人の女性に、「日本では雨だけじゃなくて、星が降ることがある。」と教えたことがあるが、(あくまで星が”降る”という表現のニュアンスを伝えたかったわけだが、うまく伝えられなかった。)今にも降ってきそうな星たちだった。

西半球での星空

少し時間が経ったところで、その星たちが徐々に視界から消えていった。遠くから近づいてきた車のハイビームのせいだ。地平線近くの空が白く明るくなっていた。しかし車の音は一向に聞こえることがない。虫の鳴き声も一切ない静かなその空間では、聞こえるものと言えば自分の鼻から空気が出入りする音くらいだ。すると白だと思っていた色が、実はオレンジに近い色であることに気が付く。それは月だった。沈んだ後の太陽が青い空にオレンジを残すことは知っていた。しかし、月が地平線から顔を出す前にあたりの空をオレンジに染めることは知らなかった。やがて月はまん丸になって、それにつれて空はどんどんと明るくなった。ふと空を見上げると、そこにはまだ必死に輝いている星たちがあった。

月の出と星

夕日のようにオレンジ色に染まる地平線とその近くの空。しかし夕日とは違って、そのオレンジ色は高い目線で黒色とのグラデーションを作る。そしてその黒にちりばめられた星たち。僕の見るものすべては、そんな幻想的な風景に長い間とらわれていた。

1時間ほどすると、うとうとしてきて、僕はテントに入って少しだけ本を読んで、寝た。なにかを成し遂げたようで、実は何もしていない、そんな1日だった。
けど僕は思う、「そんな一日があってもいいじゃないか。」

そんなことを繰り返して僕は、北海道から沖縄までとほぼ同じ距離を、2週間ほどかけて移動した。そこで見た風景や話したことなんて、これからの人生で何の役にも立たないまま、ただの思い出の一つとして終わってしまうのかもしれない。
けど僕は思う、「そんな2週間があってもいいじゃないか。」

おわりに

僕はこれから約半年、無計画に旅をすることに決めた。
南米に行く航空券を買ってから少し気持ちが安定していない。
仲のいい友人は卒論や部活や留学で、最近ゆっくり話せていない。
正直この無責任な決断に対して、怖いと感じることのほうが多い。

けど、そんな半年でいいんじゃない?
てか、そんな人生でいいんじゃない?

半年後、この言葉を言うことはできるのかは、まだわからない。

猫の気持ち

この話は僕の哲学に通ずる部分があって、「時間の使い方が上手」だとか、「時間がもったいない」みたいな言葉をよく聞く。海外に行くことに関しても、「留学を失敗させないために」なんて言うタイトルの動画がごまんとある。でも、もし僕らが猫だったらそんなこと考えないで、日向でスヤスヤと昼寝をしているんだろうなって思う。まぁ僕らは猫じゃないし、きっと猫にも猫の悩みがあるんだろうけど。

うちのねこ、もーちゃん

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