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なんか“ていねいな暮らし”っぽくね?

最近は前にも増して自炊をちゃんとしてます。もともと料理はそれなりにするほうだったんですが。ここ数ヵ月くらいは毎日のようにスーパーや八百屋をめぐってて、おかげで今まであまりわからなかった旬の野菜や果物がわかるようになってきました。ちょっと前だとイチゴが安かったです。イチゴの季節は3月末くらいまでで、いまはタケノコを見る機会が多くなりました。ということでさっきテレワークのお昼休みにタケノコを買ってきまして、いま米のとぎ汁で茹でてます。本当は米ぬかを使うらしいんですけど米ぬかってどこで売ってるかわからないんですよね。それで調べたら米のとぎ汁でも代用可らしくて。それはそれとして米ぬかについて調べたらぬか漬けのやり方とかも出てきて面白そうだなと思いました。ぬか漬けもやってみたい。

こういう時、ふと頭の斜め上の方にある謎の領域から『なんか“ていねいな暮らし”っぽくね?』という一声が聞こえてます。いやマジで聴こえるわけではなく頭にアルミホイル巻いてるタイプの人でもないんですが、自分がていねいな暮らしっぽい感じになってるとき聞こえてくるんです。ていねいな暮らしっぽさへの気恥ずかしさ、俺はそうじゃないぞあいつらとは違うぞという謎の言い訳、そうセルフツッコミを入れることで何かに振り切れるのを阻止したい気持ち、それらがグチャッと混ざった結果として『なんか“ていねいな暮らし”っぽくね?』が聞こえるんですメタの領域から。

いやね、そもそも別に旬の野菜や果物を買っても、タケノコを茹でても、ぬか漬けを漬けこんでも、その行為をしてるから“ていねいな暮らし”に属するわけではないんです。そういう暮らしをしてる田舎のおばあちゃんが“ていねいな暮らし”かというとただ暮らしているだけじゃないですかおばあちゃんは。生活を突き詰めた結果そうなってるだけ。作為はない。じゃあなぜ『なんか“ていねいな暮らし”っぽくね?』が聞こえてくるか。それは俺に作為があるからです。いや毎日自炊してるのも八百屋巡りも必要があるからそうしてるんだけど。それに加えて“気どり”がある。間違いなくある。あるから声が聞こえてくるんです。

そもそも旬の野菜って普通に新鮮で安いんですよ。自意識や美意識ではなく利として新鮮で安い。断固とした利があるわけです。でもその利ってある程度地に足の着いた生活を前提とした利なんですよね。毎日朝起きて、自炊して、掃除して、買い物行って、みたいなやつ。そういう生活をそこそこ以上にちゃんと回している前提の上での利です。だからそうできてない人が旬の野菜なんか買ってもあんまり意味がない。そして、この前提条件って現代社会を生きる上でおざなりにしがちな部分で、達成し続けてる現代人は結構少ない。それゆえに「旬の野菜を食べよう」が利であると直接認識するのも難しい。ゆえに“ていねいな暮らし”という概念が生まれてしまうわけです。別にそれが利となる暮らしをしているわけでもないのにある人は“ていねいな暮らしをするわたくし”という作為でそれを行うし、そうしてる自分は作為ではなくほんとにそうだからみたいなツラするし、それを見たある人は拭いきれない不自然さをはいはいていねいていねいと馬鹿にする。哀れで悲しき泥仕合が始まるわけです。きっと戦争とかもこうやって起きるんだね。

『なんか“ていねいな暮らし”っぽくね?』が聞こえてくる理由。それは俺に作為があって、“気どり”があって、俺が哀れで悲しき現代人のひとりだからです。だって別にウーバーイーツでいいじゃんね。それか田舎行って自分で畑耕せよ。そういう安易な二極化もオタクっぽいぞ。

俺はこれからもスーパーや八百屋へ行くたび、旬の野菜を買うたび『なんか“ていねいな暮らし”っぽくね?』という声を聞くでしょう。(ああ…また“声”が聞こえてきた…)(俺はていねいぶった哀れな現代人のひとり…田舎のおばあちゃんにはなれない…)(米ぬかも手に入れられないくせに…)と自嘲し続けます。そうして生きていくんです。でもわかりませんかそういう感じ。なんかしてる時にそういう自分って〇〇じゃね? みたいな声が聞こえてくること。あるでしょ? ないんですか? あるっしょ? ない? マジ? もしかして俺ってめんどくさい? あっそう…。

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