実桜や ~俳句甲子園における評価の対象~

実桜や昭和ポルノの並ぶ店

俳句甲子園地方大会の投句〆切前日にこの記事を書くのはどうかと思ったが、記憶が薄れる前に書き残しておきたいと思う。
先日ツイートしたこの句は、昨年度の地方大会にて試合使用した一句だ。
(便宜上、一人称を私とすると)私は基本、自分で良いと判断した作品に関しては、その作品を最高のものだと信じる人間だ。
だからこの句も、ぽんと浮かんだ瞬間に試合で使おうと決めた。
後輩たちには指導する立場なので、先輩たちに意見を貰いながら、仮オーダーに大将戦の句として決めて顧問に提出した。
すると翌日、顧問に個人的に呼び出され「春明さんの句なんだけど、ちょっと、ねえ……?」と仮オーダーを返された。
他の句が○を付けられている中、実桜の句だけは△を付けられていた。
とは言え、顧問は俳句に滅多と触れない人間なのでショックは特になかった、が、流石に不服だったため理由を聞いた。そして呆れた。
「高校生が詠む俳句じゃないと思うのよね」
そんな理由で△を付けられたのか、私の句は、お前に。
こっちの方が高校生らしくて良いんじゃない、と言われた句は、明らかに5点程度の句だった。
その場は「この句が駄目なら私は今年の俳句甲子園出場を辞退しますが、それで良いですか」と押し通してどうにかなったが、予想通りというか、一番の事件は地方大会当日に起きた。

地方大会の結果だけ簡潔に書くと、優勝して全国大会出場が決まった。
もちろん、実桜の句も相手に勝った。
だが、審査員の講評が納得いかなかった。
「この句は高校生が詠むべき句ではないですね。背伸びをしています。狙ってやった感が出ているというか……こういう句は中年の男性が詠むべき句です。作者はもっと、高校生らしい、瑞々しい句を詠むべきです」
講評とは思いたくないが、その講評を聞いた正直な感想は、こんな人でも審査員が務まってしまうのか、だった気がする。
中にはもちろん『実桜と昭和ポルノの取り合わせから生じる不思議な懐かしさ』という、私がこの句に預けた雰囲気を読み取って評価してくださった方もいた。それが唯一の救いだった。

以上が昨年度の地方大会で起きた一連の出来事だ。
約一年経って冷静に分析したことをまとめる。

①本来の作品と作者を繋げる評価について
作品と作者を繋げる評価は、本来あってはならないことだ。
簡単な例を挙げると「女性らしい句」「男性らしい句」と、作者の性別のみに寄り添った評価のみを受けると、恐らく僅かな引っかかるものを感じるはずだ。それは作品としての評価をされていないことになるのだから。
神大の私の句の講評が、性別に沿った名前の解説のみで半分以上書かれているのを発見した時は、図書カードを使用していなければ入選辞退を決めていただろう。
確かに俳句は作者の経験や発見を中心に詠まれる。
だがあくまでも、中心になっているだけであって、十句中十句の句の主体が作者自身であることはそうそうない。
男性や女性、学生。そういった要素は作者自身のものであり、作品自身のものではない。
ましてやそれが作品評価に繋がり、本来評価されるべき部分が、作者に関する情報によって落とされるなど、あって良いはずがない。

②高校生というブランド
高校生と聞くと、部活や恋など、きらきらしたイメージを持つ人が多い。小説などでも、学園モノはよく発行されている。
結果、『高校生』と言えば『青春』というイメージを持たれがちになっている。もはや一般概念として通っている。
だから、どんな作品を詠んでも「”高校生なのに”凄いね」だとか「”高校生なのに”こんな句を詠むの?」という具合に、高校生というブランドのフィルターが掛かる。
一人の人間として、俳人として、どれだけ努力しても『高校生』という枠から抜け出せないのだ。
じゃあ世間が求める『理想の高校生像』から遠く離れた私のような人間はどうなるのだろうか。
人格が形成される思春期の大部分を常に大きなストレスと共に生きた人間が『高校生らしい瑞々しさ』を知っていると思うのだろうか。
私の根っこにある『創作のための経験や発見』はその黒い部分で形成されているのに、それをやれ『高校生らしくない』だの『高校生のうちは性的イメージを詠むべきではない』だのと否定されては困る。
高校は卒業したが、今後は恐らく性別らしさや年代らしさのフィルターを掛けられるのだろう。

③上記を踏まえた俳句甲子園という場
作品評価は①で記述したように、本来、性別や年齢などで評価が傾いてはいけない。だが、俳句甲子園では作者が見えてしまうため②のような対高校生フィルターを掛けられる。
その結果が良い方に傾くのならまだマシだが、悪い方に傾くのなら問題だ。
作品点は作品としての出来栄えを、鑑賞点はディベートのやり取りでの真っ当な評価を。
それが本来あるべき形のはずなのだが、姿が見えるというだけで、意識をしていなくても、僅かに傾いてしまう。
俳句甲子園は、俳句をやっている仲間と、作品と、すぐ近くで触れ合える本当に良い場所だ。
そして、作者との距離が近いからこそ、メリットもデメリットも生じている。

ここまで長々と私の経験と考察を稚拙に綴ってきたが、私が言いたいのはただ一つ。「真っ当な作品評価をしろ」ということだけだ。
俳句甲子園だからこその難しさもあるかもしれない。だが、作者はすぐ目の前にいるのだ。
俳句甲子園を通して俳句を好きになるか、嫌々続けるか、俳句をやめるか。下手したらそんな分岐をさせるかもしれない場所だ。
自分が出した作品を「この表現が惜しい」などと、作品として指摘されるなら勉強になるが「高校生らしくない」などと、どうにもならない部分を指摘されるとすれば、何のために出場しているのか分からない。
好きだったものが嫌いになる瞬間ほど嫌なことはない。
句会の、コンクールの、賞の、俳句甲子園の、全ての場においての評価対象は、作品だ。

そしてもしこの記事を、今年の俳句甲子園に出場予定の高校生、あるいは中学生が読んでいるのならば、加えて伝えさせてほしい。
もし、私と似たようなことが起きた、もしくはこれから起こりそうな人へ、去年の経験から得たことを書き残します。
私の体験談や自分自身の経験から、俳句甲子園出場や、高校生フィルターの評価を怖いと思った場合、三つの選択肢があると思う。

一つ目は、俳句甲子園に出ないこと。これは一番安全な手段だ。
自分自身が矢面に立たされることもないし、ディベートに抉られることも、作品を作品として評価されない可能性も、全てなくなる。
作品発表の場は割と溢れているから、それで足りるなら出なくても良い。

二つ目は、無難な作品に切り替えること。これは『これから起こりそうな人』が主に該当すると思う。
ディベートがあまり乗り気がしなくなってしまう可能性があるが、それでも、まだマシな作品評価を受けることが出来るはずだ。
保身しつつ俳句甲子園という舞台には立てる。

三つ目は、俳句甲子園を利用すること。
どんな評価をされても、作品を試合使用として出してしまえば、観客や審査員や対戦相手の目に触れるし、持ち時間の間だけ語ることが出来る。
自分が好きと思える作品を、受賞等関係なく、出してしまえば語れる、掲載される。そういう場として俳句甲子園を利用する。

私は私らしい言葉にすると「ムカつく」から、三つ目の方法として俳句甲子園に出場した。
顧問に一つ目の方法で突っかかり、二つ目の方法を「面白くない」と切り捨てた上でだ。
私より賢い人なら、まだまだ他の方法を思いつくだろう。
だからこれはあくまで、私個人としての意見だ。
だが、どれを選んだとしても私は、書きたいものを書く人の味方になる。
それが、今年から選手ではない人間の、去年散々色々なものを見てきた私が出来ることだからだ。


春明(徳山高校OB 西村)

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