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「大切な女性に感謝をする日」と聞いて、コーヒーをこぼしたまっくらな瞳を思い出した。


午前10時。
小さな男の子を連れた女性が来店した。

ジャケットにパンツ、パンプスのかっちりした雰囲気から見るに、このあと仕事に向かうのだろう。パンの乗ったトレーをカウンターに置きながら、女性が小さな声で注文する。

「モーニングセットを。」

「セットでしたら、こちらのドリンクからお選びください。」

「あー、アイスコーヒーで。」

ねぇ! ママ! と手元ではしゃぐ男の子に気を取られているのか、目が合わない。まぁそれはいいけれど、そこまで眉間にシワを寄せなくてもいいのでは? なんか怖いな、この人。

「かしこまりました。セットのご利用で、お会計390円です。」

心の中が表に出ないよう、ひとつ上の音階で声を張る。会計を終わらせたお母さんは相変わらずむすっとした顔でコーヒーを待っている。おお、怖っ。その眉毛に透明の鉛筆でも乗せているんですか。

Sサイズのグラスを取る。氷を入れ、サーバーからコーヒーを注いでいると、音量は小さくもキンとした声がレジに響いた。

「こら、触らないの。…いい加減にして。」


おそらくレジ前に陳列されたお菓子に触ってしまったのだろう。たしかにあまり良くない行動だ。でも、そんなに怒らなくてもいいじゃ〜ん…。吐き捨てるように叱られた男の子は、しゅんと下を向いてしまっている。

「お待たせいたしました。アイスコーヒーです。」

お母さんは右手にグラスを乗せたトレーを持ち、左手で男の子の手を引きながら立ち去った。席までトレーをお持ちすればよかったかな。まぁ、いいか。機嫌悪そうだし。ああいうお客さんは珍しくないけれどやはり気持ちのいいものではない。あの子、これ以上怒られてないといいな。


ガシャン


うわ、まじか。
アルバイトも3年目になれば、この「ガシャン」の「シャ」のあたりで次の行動ができる。「ン」の音が終わると同時にキッチンペーパーとほうきを抱え、【STAFF ONLY】の扉を開いた。

ああ、やっぱり。さっきのお母さん。
席に向かう途中の段差にアイスコーヒーの海が広がっていた。大陸のような裏っ返しのパン。その周りを点々と泳ぐ小さな氷たち。落ち方がよかったのか、グラスは割れていない。

「ああ…。もう、ごめんなさい、本当に。」

会計での冷たい態度とは違う、丁重で、世界が終わるかのように悲しげなお母さんの表情に驚いた。ぎょっとした、の方が近いかもしれない。あ、この人泣きそう。根拠もなく感じた。
会計後に商品を落としてしまった場合、この店では無料で新しいものを提供する。お母さんの醸し出す空気に戸惑いながら、努めて明るく声をかけた。

「いえ! 大丈夫ですよ。お召しものは汚れていませんか? 新しいコーヒーとパンをお持ちしますので、お席でお待ちください。」

ひとまず、一面の氷とコーヒーを端に寄せなければ。ロール状のペーパーをぐいっと引きながら屈もうとしたとき、先ほども聞いたキンとした声がかぶさった。

「いや、もういいです、帰ります。」

新しい分も支払います、と言うお客様は多い。それは店の決まりだから大丈夫だと丁寧にお断りするのだけど、でも、え、帰る? いやいやいや。それはなんか、私が困る。

「いやいや! 代金も頂いているので、」

「いいんです、帰ります。」

私の「お席でお待ちください」を律儀に守っていた男の子を、ほら行くよ、と呼ぶ。本当に帰ろうとしている。え、どうしよう、こういう場合はどうすればいいの?

屈もうとした途中の変な中腰姿勢でプチパニックに陥っている間に、男の子が近づいてくる。「帰る」という強い意思をにじませた手に自らのちいさな手を絡め、男の子は私に言った。

「ありがとう!」

ありがとう。それは、私がこぼしたコーヒーを拭こうとしているから?
入店時から元気に声を上げ、お菓子に触って叱られていた男の子は、場の状況を見てはっきりとお礼を言える男の子でもあった。顔を上げるとお母さんは変わらず思い詰めた顔をしている。このまま親子を帰してはいけない、そんな気がした。

「では、失礼します。すみませんでした。」

気がした、けれど、できなかった。


「すみませんでした。」と言ったお母さんの、すべてを諦めたような光のない、まっくらな瞳を鮮明に覚えている。その日は晴れていて店の外は明るかった。それなのに、男の子の手を引いて店を出ていくお母さんの背中は、暗闇の渦に吸い込まれていくようだった。


+++


男の子がお菓子に触ったときの叱り方、コーヒーをこぼして帰ると言ったときの表情。あれは、今にも破裂しそうな心の現れだったのではないか。
それに気づいたのは、お母さんがまっくらな瞳で帰っていったあとだった。

憶測の域を超えないけれど、あのお母さんはきっと、普段からあの日の会計時のような態度をとる人ではない。理由は男の子にある。
男の子は、ありがとうと言った。まだまともに掃除していない、ペーパーを持ってきただけの私に。しっかり目を見て、元気な声で。それを教えたのは誰だ? お父さんや、幼稚園の先生、そして、お母さんだろう。やっぱりあの日の彼女は、破裂しそうな心のかたちを保つので精いっぱいだったのだと思う。


子どもを育てた経験はないけれど、何もかもが嫌になったり、些細なことに苛立ったり、ひとつの失敗に釣り合わない大きなダメージを受けたり、心に余裕がなくなる状態はすこしだけわかる。自分なりの感覚を表すならば、世界に誰ひとり味方がいない気分。

「怖っ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃん」
「機嫌悪そう」

事情を知らないとはいえ、会計時にあのお母さんを内心冷やかし、突き放していた私は、彼女を味方のいない世界に放り投げる一因になっていた。



ミモザの日は、
大切な女性に感謝をする日。
あなたは、
誰に感謝を伝えますか?
(上記サイトより引用)


母親、おばあちゃん、友達、先輩。
大切な女性に感謝をする日と聞いて、いろいろな人の顔が頭に浮かんだ。自分と深く関わりのある女性たちの中になぜか、半年前アルバイト先に来たお母さんがいた。


あのお母さんは私にとって「大切」な女性には当てはまらない。
それでも、あのまっくらな瞳が頭に浮かぶ。
それは彼女が、想像し、行動しようと心がけるきっかけを与えてくれたからだ。

眉間にシワを寄せた表情や男の子を叱る声を聞いたときに「大丈夫かな」と想像できていれば、席までお持ちすればよかったかなと思ったときに動けていれば、お母さんはコーヒーを飲む休息の時間を得られたはずだ。
大丈夫ですから、座って休んでください、と真摯に伝えて引き留められていれば、まっくらな瞳はほんのすこしだけ明るくなったかもしれない。


「機嫌悪いな」ではなく、「大丈夫かな」。

想像力を働かせる。
味方がいないと思わされる世界で足を震わせながら立っている人が、すべてを諦めたまっくらな瞳になってしまう前に、気づけるように。

たとえその人が「大切」には当てはまらない存在でも、あなたは世界にひとりじゃないよと、手を伸ばせる人でありたい。



あの日のお母さん。

私に想像力と行動力が足りないと気づかせてくれて、ありがとう。

今は、笑えていますか。

「ありがとう!」としっかり伝えられる男の子のそばで、あなたが明るい瞳で世界を見られていることを、他人である私は願います。



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