2023.7.29(土)空間芸術と私たちの身体・イサムノグチの彫る場所

花火やお祭りの音が遠くに聞こえるような日ですね、4年ぶりの場でのお祭りが帰ってきている催し事が多いようです。

今日は美学についての読書会、テーマは「空間と芸術論」でした。
イサム・ノグチの公園の特徴を取り出しながら、ポストモダンにおける空間芸術について、その輪郭がどこにあるのか?を探るような会話を進めます。

近代以前はイギリスの庭園にわかるように、空間芸術とは客観的に眺めて「美しい」という価値を目指す場所でした。しかし、アートシーンではデュシャンを結節点としたポストモダン以降では「美しさ」という価値は多様な価値のうちの一つになり、さまざまな価値基準でものの見方が認められるようになりました。とりわけ、空間芸術としては、鑑賞者とのインタラクション、眺めるものではなく、体験する場所を含んだ環境芸術としての意味合いが強くなってきます。特にイサム・ノグチの公園や彼の作品群である「プレイスカルプチュア」に現れるように、一見して、何かわからない、けど触れてみて、登ってみて、例えば「そうかこれは滑り台だったのか」ということがわかったりする。または何かわからないけど、上に乗ってみたくなったり、近づいてみたくなる造形をしている。しかしその解釈の可能性が開かれている点においては、近代の価値観とは離れていると言えるでしょう。

ここの違いとは何だろう?と話していく中で特に面白かったのが、ディズニーランド・モエレ沼公園・チームラボを比較して考えてみるということです。
解釈や体験の幅が鑑賞者にどれだけ委ねられているのかを取り出して考えてみることにしてみて、例えばディズニーランドは一つの物語の一貫性を保つために、解釈の幅はごく限定機に工夫されていると言えます。ディズニーランドの正面の城を100人がみたら、100人がシンデレラ城というでしょう。これは近代的な価値観がベースになっているので、ある種の美しさ、ウォルトディズニーという価値に収斂する一貫性がベースになっています。
一方でイサム・ノグチの公園や環境は、鑑賞者に体験の幅を広く委ねられていると言えます。近づいてみる、登ってみる、周囲から観察してみる、何かは分からないけど、こちらから向こうを覗いてみる、みたいな体験を通じておもしろみをつい鑑賞者が見付けたくなるような、物質的な工夫が見て取れます。

そして三つ目の比較例がチームラボです。これは鑑賞者に体験の幅をある程度は委ねているが、設計者の意図も強く出ている場所でもあると言えます。こういった場所だから入場料を払うことができるのかもしれないですね。なにを体験するかは曖昧ではあるが、何かわからない何かを体験するためにそこに足を伸ばしたくなるようなクリエイティブはバランス感が必要です。

ポストモダン以降の芸術は二段階の構造を持っていると言えます。近代までの目で見て直感的に「美しい」と思うような第一段階、その次にあるのが、これは何か?どのようなコンテクストでどのような意味があるか?というに段階目が存在します。

しばらく前に、東京ステーションギャラリーでブリティッシュカウンシルと「プライベートユートピア展」というまさにイギリスの皮肉の効いた現代アートの企画展をやっていたのを思い出しました。

https://www.britishcouncil.jp/private-utopia

現代アートにはなにかしら心をざらつかせる部分がある。例えば「I'M DEAD」という看板を立ち上がって立てている犬の剥製 (デイヴィッド・シュリグリー『アイム・デッド』)が私たちを見つめているのは、例えば国立西洋美術館での芸術鑑賞では味わうことがなかなかないような体験でしょう。ライアン・ガンダーの作品をここでも見ていたのか懐かしい。

とかとか土曜の朝から問いを作っては行ったり来たりして。
そうそう今週はチームで1日使って目標や相互理解を深める時間を作って、夜はチームで焼肉会という、久方ぶりに対面で揃って過ごすという時間を過ごしたのはよかった、特に相互理解を深めたり、それぞれなにを期待しているのかを伝え合うのはこそばゆいけど、チームとしてうまく動いていこうという意識が芽生えますね。






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