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ただそっと、ぎゅっとしてほしかったのかもしれない。


「おとーしゃんだっこ」


おとうさんにだっこをせがむ、おにいちゃん
先日生まれた妹は、まだおかあさんのうでの中


「だっこされてるーぼくといっしょー」
妹とおかあさんを見ながらけらけら笑う。
おとうさんにだっこされて上機嫌になったみたい。


おにいちゃんとして、いもうとの面倒を見てくれたり、一緒に遊んでくれたりとがんばっているみたい。でも、やっぱり甘えたいよね。


「最近、さみしいって言えるようになったんだよね」
おにいちゃんを見ながら、そっとつぶやく。
あかちゃん返りをしたり、いやいやがひどくなったりした時期があったんだって。


さみしいって言える環境をちゃんと作ってあげてるんだなぁ 
甘えたい、さみしいって言うのはけっこう勇気が必要なんだよねぇ。だいすきだとなおさら。

…あら、知らず知らずのうちに自分の小さいころと重ねて見ていたみたい

物心ついたときには小さな弟が2人いた。
一つ下の弟は病気がちで、4つ下の弟はまだまだ手のかかる時期だった。
わりとなんでも一人でできたし、かまってもらえた記憶があまりなかった。


昔、父にだっこされている写真を見つけて「おとうさんがだっこしてくれてる!!」っておおはしゃぎしてたっけ。 家中走り回って、家族に自慢していた。「なんでそんなに喜ぶの?当たり前じゃない?」くらいの反応をされたような気がするけど、そのくらい、自分にかけられている愛情のカタチを見つけるということは特別なことのように思えた。(念のため言っておくけど、別に両親との仲が悪いわけじゃないよ)
だって、写っている写真はみんな弟たちのだっこ。2人が生まれてからは、わたしがだっこされた写真一枚もない。 さみしかったんだろうな、きっと。


“おねえちゃんだからいい子でいなきゃ”
“見ていてほしいから、いい子でいよう”

それが知らない間に強く刷り込まれていたような気がする。誰から強要されたわけでもないけど。
あのころ、素直に「さみしい」ということは、わたしにはできなかったんだよなぁ。


それが大人になっても強く残っていて。
頼りたいなと思っても、両親にはなんだか言うことができなくて。
いい子でいなきゃいけない、と無意識のうちに思ってたからかもしれない。


「こんなわたしじゃいけない」って



両親だけじゃなくて、周りの人にも、“つらいときにつらい”ってなかなか言えずに。そう伝えることはわたしにとって、ハードルがものすごく高いの。
それと、“我慢すること”がくせになっているようで。誰かに指摘されないと気づくことができなかった。


今はいろんな人に出会って、今の自分を認めることができてきているし、さみしいときにはさみしいって言えるようになってきたよ。でも、けっこう根強くて。


両親に対して不満があるとかそういうわけじゃないけど、上の子を見ているとついつい自分と重ねてしまう。
その子が上の子だからと言って、わたしと同じように感じるわけではないし、みんな一生懸命だからどうこうっていうわけでもないんだけど、なんとなく思い出したの。

きっと子供のころのわたしは——-


おとうさんにだっこされたきみは、とてもしあわせそうで。 
ちょっと妹と代わってもらって、おかあさんにもだっこしてもらって。
それもまたうれしそうで。いもうとの頭をなでてあげていて。

彼らは悩みながらも、「あなたが大事だよ。だいすきだよ」ということを惜しみなく伝えていた。父も母もこんな風に考えていたのかなぁ。


なんて、子どものころを思い出してちょっとセンチメンタルになってました。
次に会うときは、また大きくなっているんだろうなぁ。
すこやかに元気に育ってほしいと願うばかり。


今日も読んでくれてどうもありがとう。またね。

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