2019/07/17 5億年生きたい

なんだったっけと思いながら水をコップに注いでいて、なみなみと注ぎ終わったコップを手にとって、思い出す気配、糸の先が風で揺れてふと見えるような雰囲気のものをを感じている時、外から見た彼女の動き自体は止まっていた。外から見ているから。でも店内には誰もいなかった。「すずめベーカリー」と思った。思うという形というよりは頭に「すずめベーカリー」と親しみやすくておしゃれなイラストと共に書かれた看板の姿がうかぶ感じと自転車を漕ぐ体とタイヤと道路の関係の感じ自体がふっと現れて去るという感覚が思い出す気配の手触りであるところの糸の先のようなものを支えるでっぱりで、「すずめベーカリー」の看板の横を横切る時に「すずめベーカリー」、とその時の考えを遮るように頭の中の声が読み上げて、見たものを読み上げてそのまま思ってしまった、と思ったからだった、それが結局記憶の中で一番強くその周囲を率いて残っているというのも本当の単細胞、自分の動物的でしかない仕組み、という感じがして頼りない思いもしたけれど実際率いられてその看板前後、前後というよりも看板前、なぜなら看板後は「看板見てそのまま思っちゃったな」と思ったのが強かったからそれだけなんだけど、看板前に前に思っていた内容、「なんだったっけ、なにか」と思い出そうとしていたひっかかりを結局はその手続きをとって思い出せたのだからそこまで思い詰めたきもちではなかった。
岡田利規「3月の5日間」の最後に女が犬の頭とホームレスの男の尻を見間違えて、人と動物を見間違えた自分がおぞましかった、そして嘔吐する、そのことが、いまいち分かりかねているのは、なぜだろう、と考えていた、犬が好きだからとかそういうことでもなくてこの小説の他の要素について自分がわかりすぎるほどわかるというかわかるということばではなくて、なんていうんでしょうか、大事、大事すぎるほど大事、みたいに胸から本を通して世界に気持ちが刻み込まれるような感覚、それと比べてわかりかねていると思った。どこかにいるはずの自分よりもわかっている人という人のわかりをすごい理解であると勝手に期待しているからというのもあるかもしれなかった。
ミニトマトが路傍の木の根元に一粒落ちていた、トマトであるのか何かプラスチックでできたものなのか判然としないくらい鮮やかすぎる赤いピカピカした粒で、それがプラスチックっぽいと思われたのはさらにそれが質量を持たない空洞っぽい質感にも見えたからであった。けれど自転車で一瞬目に留めたそれがミニトマトかプラスチックかは永久に判別できないまま、どんなにググっても、もうわからなかった。過ぎたら戻ってこない、永遠にわからなくなることが、ありすぎてこわい。こわいからといって何もしなくても過ぎるは過ぎるのに、自分はとにかく決めかねている、決めかねがちだ、ただ決めてそれを示せばいいことをさっさとしないで勝手に首が絞まっていく場面がこの7月前半にたくさんあったと思う。決めるだけでつらさが消えて笑えるようなできごとだった。決めればいい、明日行く場所も、顔合わせの日も、保険のことも、夏休みの過ごし方も、決めかねるということが自分で自分の首を締めていくというのは重々分かっている、それでも決めないのが本当に悪い、どんどん決めよう、どんどん決めないと何もできなくなる、あれはミニトマトだったことにもう決めよう、と思った。そういうことではないかもしれないけれど、すずめベーカリーの横を通った。

あ、あのことだ、3月の5日間の犬のことだ、と思い出せてスッキリ液みたいなのが脳の中で放出されるのを感じながら注いだ常温の水を飲んだ。大きいコップだった。常温の水が体の中に入っていく感じは美味しいとかそういうことじゃなくてものを口から体に入れる感じで、体と水の軋轢がごく、ごく、という形をしている。そうしながら外を見ると茶色いトイプードルがテテテテと歩くお尻が見えて、遠いからかトイプードルに憧れが弱いからか、犬だな、くらいに思ったのがコップに揺れる水越しだった。
店内には誰もいないけれど、外から意外とよく見えるんだよなと思う。それでいて、夕方見やったところでちょうど店前で止まったトラックの運転席助手席その間に3人の男が座っていて、タオル巻き、坊主、黒髪、真ん中の坊主の人はもぐもぐと口を動かしながらゼリー飲料のキャップをずっと回していた。私がずっと見ていても三人が三人ともずっとこちらを見なくて珍しい感じがした。ずっとというのはその信号待ちの間、私が見ていた間のずっとで、そうじゃなくなった時のその人たちのことを私はおそらく生涯見ない。
ここで生涯と言ってしまうと大きい言葉で逆に矮小化しているだろうか?

屋上の水やりのために蛇口とつなぐホースが窓の外の柵のところに溜まっているのを引き出すためにまず開ける窓が固くて、力を入れると左手首が痛んだ。左手首が痛んだことによって力を入れたことに気付かされたとも言えた。力を入れてしまうことに左手を使ってしまうから、左手首が痛くなっているのかもしれなかった。
昨晩左肩の手前のどう形容したらいいのかわからない部分に変な米みたいな痛いしこりを見つけて、これが最近左手首が痛い理由であって左手を全部ごっそりとらなくちゃならないのだとしたら、私は困るな、と思った。バイオリンが弾けない。右手が効かなくなった時のために左手で字を書く練習をしていると言う人のことを思い出した。その現在はどこにあるんだろう、右手が効かなくなった時のための現在というのは不思議な現在だなと思ったけれど言わなかった。
バイオリンが弾けなくなるんだとしたら、ますます練習しようと思った。屋上に水をあげ終わって、ホースを窓の外にしまいながら思った。屋上ではナスがはち切れんばかりに、ミントが騒がしく、青唐辛子が突然大量発生、青いトマトが日を浴びないから青いままみちみちに大きくなっていた。バイオリンを弾けなくなるからといって、弾かなくなってしまったら、絶対にだめだ。左腕がなくなって弾けなくなるから弾かないんだとしたら、死んで体がなくなるから生きてる間何しても意味ないみたいな価値観に絡め取られてしまう、と絡め取られていないのに思った。弾く練習をしていたこと、そして弾いたことは、弾けなくなったからといって無しにはならない。
だとしたら、死ぬ時のために生きているのではなくて、現在のために生きているんだ、と窓を閉めながら、お腹がやわらかくなるような感じがした。

帰宅して、職場の怒りを電話で話していた人が今度は私にその怒りをさらに話してきて聞く。
「だって100歳まで生きたいなんて思う?」と聞かれ頷いて
「5億年生きたい」と言った。

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