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山上の垂訓とピザが好きだと言う兄の話

神様の意図なるものを「ぼんやりと」ではなく日々「明確に」ときには歴史の絵巻までひもといて、感じることができればよいのだが、なかなかそうもいかない。しかし兄のことについては、神様が応えてくださったとひとまず感じている。応えられたのは、兄妹でありながら十年間で互いに交わした言葉が平均二語というのは、あまりにも悲しいという思いについてだった。

「山上の垂訓」という言葉を聞いた人は多いと思う。これはイエス様が弟子たちを招集されて間もなく、新人弟子たちの問いに答える形で行われた。従って今でいえば、どこかの会社の新人研修をZoomで(衆目のもとで)見るような感じではないかと思う。

そこでさらに有名な「幸いについて教え」がある。

5章1節 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
— マタイ 5:1 - マタイ 5:12

自分が兄について最も悲しかったのは、兄が胃がんの手術を受ける前の直近の10年間は1年間に平均二語しか交わさなかったということだった。別に仲たがいしていた訳ではない。神様はこういう悲しみには直球の慰めをくださると思う。
それが今般の二泊三日の旅行である。

ところで、象印の宣伝のあの三姉妹はどういう意味合いで作られたのだろうか。あれが姉妹というものの平均の姿なのだろうか。それともあんな姉妹は世界のどこにも存在しないから、ユートピアが作られたのだろうか。少なくとも安藤サクラさんはちょうどよいリアリティを持て、なんとなくありそうな姉を演じている。
因みにもし自分の妹がいて、「飽きない家族はごはんと似てるね」と言ったら、ものすごくしらけるだろうと思っていた。しかし、今回自分は飽きてもいないし、しらけてもいなかった。もしかすると兄ががんになってくれたおかげかもしれない。自分は例えば兄がピザを好きでいくらでも食べられる、というようなことを知り、それが楽しかった。

あとは兄と母と一緒にいた三日間、うんと子供の頃の記憶・・・、そもそも記憶がどこから始まっているのかという話をした。自分と兄との記憶の始まりは全く違うものだった。兄の記憶の始まりが何だったのか、すでに今この時点で忘れた。自分の記憶の始まりは、名古屋の、今はない、てんぱく川の近くにいた隣のおばちゃんの黒猫だった。恐らくこの記憶はおむつを丸出しにしてしゃがんで猫を撫でている自分の写真を、後年、幾度か見たことが助けになっているのかもしれない。

その頃兄はひどいアトピーで苦しむ妹を助けなくてはいけないという任務を、自ら負っていた感がどうも、あった。

いずれにしろそういったことを含めて、あの信州旅行の三日間我々母親と兄妹は、大昔の記憶をたどって行った。

to be continued...

昼: ジャージャー麺、モロヘイヤのお浸し、シラスとセロリの葉の和物
夜: タラのムニエル、ゆかりポテト、グリンピース、レンコンのバター胡椒煮添え、あらゆる残り物