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表現の不自由とたたかう前に、暴力の自由とたたかえ

わたしが福島三部作の稽古にうんうん悩んでいた頃、ちょうどTwitterでは表現の不自由展について、連日熱い議論が交わされていた。話題に追いついたころにはほとんどの意見が出揃っていたので今更?と思われるかもしれないが、遅れてきたわたしにも一言だけ言わせて欲しい。

未だに反対派と擁護派が「作品の善し悪し」について喧々諤々揉めていたり、口々に「助成金を貰うことの善悪」や「中止すべき・展示すべき」論を延々と語っているが、不快だ!不敬だ!いや違う表現の自由だ!と揉める前に、もう一度タイトルを良く読んでいただきたい。あの展示会は最初から、表現の自由を主張することを目的としていない。表現の自由展ではない。表現の「不自由展」なのである。ここには不愉快なものしかありませんよ、アウトとされたものですよ、とタイトルにハッキリあるのだから、いまさら議論するまでもなく不愉快なのは当たり前なのだ。すでに様々な場所での展示を断られ、「美しく正しい人々」によって「殺されてきた」、「アートの墓場」なのだから。

過去に表現として認められなかったものたちなのだから、現政権下において大半の国民から拒否反応をしめされるのは当然も当然であり、こんなものは表現の自由ではないと考える人が圧倒的多数を占めることも、もうとっくの昔に結論が出ている。いま、またその内容を議論しても、どうせまた同じ結果に終わるのだ。結論の分かり切っている議論をいくらやっても結果は同じ。本当にただの時間の無駄だし、何の意味もない。

この時代にこの国で展示してはならないとされ、多くの人が考える正義の概念によって、闇に葬られた表現たち。わたしたち善良な一般人の目に触れないように配慮され、どこにも展示されず、なかったことにされてきたものたち。ここには死体が有りますよ、と言っているのに、わざわざ死体をみにきて「気持ち悪いものを見せるな!」と怒っても仕方ないのである。

しかし、なぜそんな怒られるようなものを集めて展示しようと思ったのか。それは、私たちがそれらの作品を見る前に作品が規制されており、ほとんどの人間はそういった作品を見ていないままだったからではないか。私たちは「なぜ、これらの芸術は殺されてしまったのだろう。なぜ、なかったことにされてしまったのだろう。」という理由を、今まで知ることができなかった。知る権利がなかった。しかし、それらの作品を実際に見てみなければ、なぜ不快なのか?なぜ展示できなかったのか?も分からない。誰が作品を評価し、誰が展示しないと決めたのか。その経緯も理由も、選別されたものを与えられるだけの私たちは、このままでは永遠に知ることはできない。

だからこそ「不快になるかも知れないが、見て、知って、考えよう」という展示なのではないのだろうか。「不快なものを知る権利」その企画意図が認められたからこそ、不快なものにも税金が投入されたのではないだろうか。

なのに、不快なものがなぜ不快なのかを、不快なものを見て考えよう!という企画に対し、「不快なものが展示されているから中止にしろ!」というのはおかしい。つまりこの展示を中止するということは、不快なものを見てなぜ不快なのかを判断するのは行政の一部の人間だけで良いから、一般人は「考えるな!」と言うことになる。

なぜだろう。考えることは悪なのか。なぜダメなのかを知りたいと思うことは、悪なのだろうか。この国は果たして、不快なものを一切みたくない!視界に入れたくない!人目に触れる場所に展示するな!ガソリンで燃やしてしまいたい!と叫ぶ国民ばかりでも良いのだろうか。悪を知らぬまま、正しいとされるものだけを与えられ、「不快」から逃げ続ける人間ばかりいる社会は健全なのか。社会から悪とされたものを見てみたいと思うことは悪なのだろうか。悪を描いた作品は悪なのだろうか。わたしたちには、嫌な作品をみて嫌な気持ちになり、許せない!と憤り、その不快の原因を深く追求して考える自由もないのか。それとも、これらは考えるまでもなく悪なのだから、私たちに考える必要はないと言うのだろうか。

ただ、誰がどれだけ圧力をかけようと、芸術家から表現したいという炎を奪うことは出来ないし、どれほど深く傷ついても良いから、ひとめその芸術を見てみたいという民衆の欲望を完全になくすこともできない。実は、表現に対して圧力をかけられることほど、表現者にとって美味しいことはない。現にこの表現の不自由展が話題になってから、余計に芸術のタブーについて、人々の関心は強く高まっているように感じる。これは、不快なものを社会から抹殺したい人たちにとってはきっと最大の誤算だったろう。表現者にとって一番の敵は無関心なのだから、作品が不快なら見なければ良いし、一切話題にもしなければ良いのに、なぜ反対派の人たちはわざわざ作品を見に行って、けしからんけしからんと大騒ぎしてしまうのか。不快なものをなくしたいなら、どう考えてもその行動は逆効果ですよと言いたい。この騒ぎによって、あえて不快なアートに挑戦してみたいと創作魂に火がついた芸術家も、何とかしてそれを見たいと思う人も増えたはず。抑圧は、非常に芸術と相性が良い。抑えつけられれば抑えつけられるほどそれは輝き、鮮やかに魅力を増してゆく。人間は「見てはいけません」と言われたものほど見たくなるし、「表現してはいけません」と言われたものほど、より強烈に描きたくなる。抑圧を受けた芸術は鍛えられ、研ぎ澄まされ、磨き抜かれ、必ず覚醒してしまう。そんなこと、今年の偏執狂短編集をみたお客様は、みんな知ってる。笑

なのでこの作品群について、わたしは表現の自由を訴えることなく傍観していきたいと思っている。わたしは作品をみていないし見ることも出来ないので自分なりの評価が出来ないし、語ることの全てがそれらの今後の市場価値を高めてしまうから。仮にそれらの芸術性が高ければそれも良いけれど、もし内容の過激さや話題性だけで、アートと呼べるレベルのものが少なかった場合は、わたしはその政治性や表現の自由と無関係なところで、静かに誰にも見られず朽ち果てて欲しいと思っているから。笑

わたしが思うアートの定義とは、その表現が正しくても正しくなくても良いから、誰かの心をざわつかせるレベルに達していることだ。例えば「横断歩道を渡りましょう」など、誰もが正しいと思うことを描いていても、はいそうですね、としか思えないものは芸術でもなんでもない。しかし、とんでもない危険思想をまき散らしているものであっても、そのセンスが最高にエモければそれは芸術作品となりうると思う。ナチスの鉤十字や軍服のデザインが芸術的に優れているのは誰もが認めるところであり、芸術的評価が高いからこそ、強烈に人々を魅了する危険があるとして多くの国で規制されているのは皆が知っているだろう。わたしも自らに関する誹謗中傷のツイートであっても「この人、文才ある」と思っているものには、不愉快ではあるが、それなりに高い評価をしている。よって、ヘイトスピーチは芸術ではない、というのも誤りだ。たとえ風刺やヘイトスピーチであっても、言われた人をも唸らせるほど恐ろしく完成された作品であれば、そこには芸術的価値が生まれてしまう。よい思想のものがアートで、よからぬ思想のものがアートでない、という単純なものなら、芸術なんて言葉に意味はない。アートかそうでないかは、社会的に正しいか正しくないか、人を傷つけるか傷つけないかではないのだ。

心をざわつかせたり、揺り動かしたり、激しい怒りを覚えるものもまた表現であり、結局は言葉にできない、どこかの琴線に触れるかどうかでしかそれらの価値ははかれない。実際に触れてみないとわからない。作品の情報や、他人の感想だけを聞いて判断できるものじゃない。

よって、「こんなものは芸術作品ではないから展示してはならない!」という意見には非常にもやもやする。なぜなら芸術的価値の感じられないものに、人の心を動かす力は全くない。どこに飾られていようと、影響力のないものを気にかける必要はないからだ。「これらは芸術作品であるがゆえに、強く影響される危険があるので、公共の場に展示をしてはいけません」なら分かるので、反対派の皆さんはそう言うべきだ。

しかしこれらの作品はまたもや闇に葬られてしまったため、もう作品について語ることは出来なくなってしまった。悪とされたものは悪と判断されたまま、また人目につかないところへ消えてしまった。それらがアートであったのか、なかったのか、本当に危険なものであったのか、それともそうでなかったのか、「知る自由」を根こそぎ奪われた私たちは、もう知ることすらできない。それはもう、目撃したわずかな人たちにしか語ることは許されていないのである。

作品無きいま議論すべきは、ガソリン持って行くとFAXをし、展示会の会場ごと燃やしてしまおうとした「現実に鉈をふりまわしている犯人」が、展示会の中止を求めた人たちにとって、まるで「正義の味方」かのように崇められていることの怖さ、の一点のみである。

敵の敵は味方ではないし、悪を悪で制そうとするものは正義ではないし、脅迫犯は英雄ではない。そのことが理解できていない人が多すぎる。なぜもっと怒らない。なぜ毅然とした対応をとらない。「いじめられる側にも原因があるから、脅迫されても自業自得だ。」「脅迫されたくなければ、余計なことをしなければ良いのだ。」そう考えている人がこんなにいるのは本当に恐ろしい。どんな理由があろうと脅迫は脅迫で、犯人はいま最も激しく断罪されなくてはならないはずなのに。

反対派も擁護派も、思想の違いも、政治的信条も、芸術への考え方の違いも関係ない。自分の思い通りにならないことがあるからと、暴力で物事をすすめることだけは、絶対に肯定してはならない。また、それを受けた側も安易に脅しに屈してはならない。これを黙認するということは、戦争による侵略や支配をも肯定するということ。いま、誰が一番危険思想を垂れ流しているかと言えば、今回のことで脅迫犯をスルーしている人間ではないか。表現の不自由とたたかう前に、なぜ、いまそこにある暴力の自由とたたかわないのか。現実の悪を都合よく見逃す者に、創作物の中の悪にまで口を出す権利はないのではないか。この件について発言するなら、まずは目の前の暴力を否定することからにして欲しい。

自分の思想に合致するからと犯罪を見逃したり、脅しや暴力を肯定する人間に、議論のテーブルにつく資格はないとわたしは思う。



春名風花

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18歳になりました

コメント17件

すばらしい。お若い方だと思いますが、敬服いたしました。

私は現代人に最も必要なのは「認識」よりも「スルー能力」だと思っています。
アラカンになってつくづく思うのは「人生は思っていたよりも短い」ということでした。つまらないことや、嫌っ、と思うことに引っ掛かって時間を使うよりは、好きっ、という方に時間を使った方が、幸せよ、って思います。

だからと言ってネガティブなものを嫌うのではなく、甘いも酸いもある、誰もが心の中に邪悪なものを大なり小なり持っているのがこの世です、という普遍的なことを誰もが気付いて「つっかかって」生きるのを控えてはどうかなあと思います。
基本的に賛成の多い春名さんの意見だけど、こればっかりは異論を唱えたい。
それ、芸術で良いの?

芸術ありきの前提で話が進んでるけど。
現在進行形の時事問題に関わる政治利用であっても、それ芸術だけで捉えて良いの?

春名さんの顔写真を焼いて踏み着ける映像を「芸術だ!」と唱えたって、いやさすがに春名さんは傷付くでしょうし、一般人なら訴訟モノですが。
それ、芸術で良いの?

全てを芸術という論点だけで一連の騒動を締めるには、あまりに暴力的だと思います。
元イジメラレッコだった経験から?!暴力《精神的なソレも含む》は、絶対悪だと考えてしまう!人とは何か迄考えるとエッセイ『私の宗教観』https://note.mu/michizane/n/n7ea681ac5956
で暴力を振るった奴らの死後の報いを考えたり、エッセイ『ガン・自動車・インターネット人の力を増幅する物と使用した人間への影響』https://note.mu/michizane/n/n47dce142cb54
で暴力を振るう奴が何故、発生するか考え!エッセイ『朝鮮半島と日本人の歴史認識』https://note.mu/michizane/n/n79c8946df6e2
で抑々、「表現の不自由」が問題に成った朝鮮半島の話をチャント考えて見ようと思うのだ!!
現代の社会は、国民とか、みんなという目線で見ると解析は困難。
社会に3%いるといわれるサイコパス(前頭葉が退化した先祖返り)の攻撃ばかりする人達。10%以上もいるといわれる「認知バイアス」(確証もなくかってに思い込む)の人達。
騒ぎを起こすのは、このタイプの人達が大半。
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