救われない。江古田のガールズ『地獄』

江古田のガールズ「渋い劇の祭」を観ました。6/27の夜『地獄』のほうでした。
劇評をするわけではなく、あくまで感じたことを書きます。内容については触れません。観てからだいぶ時間が経ちましたが、観終わってから今も考えていることについて。

『地獄』について ※ネタバレあり

日芸に通っていながら、ガールズさんを観たのは初めてでした。そして、シブゲキも初。渋谷の、あんなイイ所に劇場あったんですねぇ(まだまだ勉強が足りない)。

一応、あらすじを江古田のガールズ公式フェブサイトより抜粋いたします。

あるウェブサイトで知り合った初対面の男女12人が、ある廃墟に集まった。
誰も喋ろうとはせず、重苦しい空気が立ち込める。緊張感が張り詰めている。
と、このパーティーの主催者が口火を切った。
「今夜は、我々にとっては最後の夜です。大いに楽しみましょう」
こうして暗く静かに、夜会の幕が開いて行った。
彼ら彼女らの目的は一体なんなのか。何故こんな場所に集まったのか

ネタバレすると、さまざまな理由から"自殺"を望んで集まった男女数名が、死のうとするけど色々あって死ねず、結局みんな死なないでこれからも生きていくという展開になります。その途中で、作家である男が、「自分の言葉に自信をもつために、みんなを言葉で救ってみせる」と言い、なぜ死にたいのか、どれくらい死にたいのか、などというものを聞き出し、生き方を提案して救済しようとします。

集まった彼らにとってはじめは自殺が唯一の希望でしたが、議論していくうちに生きることにも希望を見出しはじめます。極め付けに、ひとりの男が割腹自殺をしたことで、死への恐怖を実感し逃げるようにその場を去る面々。

観客は最後に知ることになるのだが、件の割腹自殺は、じつは作家の男が自殺志願者を救うため、二人の俳優を用いて仕組んだ芝居だったのです。結果として、彼は全員を救うこととなりました。いつから芝居を仕組むつもりだったのかは曖昧ですが、おそらくウェブサイトで自殺志願者を募っているのを見つけた時点でこの算段を打っていたのでしょう。

「フィクション」と「救済」

話が少しそれますが、僕は最近、「フィクション」というものと「救済」ということについて、ずっと考えています。そんな中、『地獄』を観たのはタイミング的にもベストマッチでした。あの物語は、まさに「フィクションと救済」の話だったように感じたからです。

そのことを真剣に考え始めたのは、上映中の映画「ウィーアーリトルゾンビーズ」に衝撃を受けたのがきっかけです。現代の若者が抱えている(であろう)鬱屈した現実を、終始斬新な演出で描き抜く本作。神も希望もない僕たちは目的もなくさまようだけ=ゾンビ、なのだという。はたして映画は、フィクションは、僕たちにとって救済ではないのだろうか。現実にもフィクションにも救済なんてないし、救済なんて求めてないのだろうか。

僕にとってウィーアーリトルゾンビーズは、救済だったのでしょうか。自分でもよくわからないのです。希望なんてなくていいんだよとスクリーン越しに言われ、しかしそんな映画に救われた気さえする。結局、救われているような気もします。

ちなみに僕がいちばん救われた映画といえば、『スターウォーズ・エピソード4』です。あとは、寺山修司『田園に死す』です(笑)

ウィーアーリトルゾンビーズでメガホンをとった長久允監督は、映画を着想した背景に、ロシア発の「青いクジラ」があったと言います。現代の子供たちに向けて、なにか希望を見せてあげたいと思ったとのこと。つまり、長久監督は"誰かに希望を与える方法"のひとつとして映画という「フィクション」を用いたのです。

「救う」とは?

さて、話を「地獄」に戻しますが、劇中の作家の彼も、同じく芝居というフィクションを用いて人々を救おうとしました。そして実際に、死の淵からみんなを生還させたのです。立派な救済。

かくいう僕も劇作家を名乗っています。フィクションに救われ、フィクションの救済力を信じ、だれかをフィクションで救えたらいいなと思い、芝居をつくり、表現をします。かつてアリストテレスは「浄化」という言葉を使いました。笑いでも涙でも、心が動くということで救われる。その通りですね。

僕は、人を救うとはどういうことなのか、ということを、必死に考えています。自殺から人を救うことは、救いなのでしょうか。

ゾンビみたいに

僕は、死んだほうがマシだと思いながら生きています。生きていていいことなんて一過性のものだし、生きる意味なんて、突き詰めれば突き詰めるほど本当に、何もない。子孫繁栄でしょうか? 愛する人と過ごすためでしょうか? 素晴らしい景色を見るためでしょうか?

だとしても、すべて後付けの理由です。親の都合でしか子供は生まれません。子供が欲しいから、家系の都合で、性欲の果てに、よくわからず、結局は生まれるわけですよね。だから僕は、誰に何を言われようと、生きてる意味とか、生きてればいいことがあるとか、そういう呪文は右耳から左耳へ、なんです。響かないし、届かない。

僕にとっては、世界はこう見えているのです。演劇は大好きだし、ひとつの生きる意味です。でも、本当の生きる意味なんてないし、いつ死んだって、なにも悪いことじゃない。

では、そんな人にとって、「自殺を止められる」ということは、はたして救済なのでしょうか。

僕は救われなかった

『地獄』を観て、僕はこう思いました。救われないなあ、と。そもそも、本当に死にたいと思う人は他人と一緒に死のうなんて思いつきすらしません。他人と関わることが、いちばん、死にたい原因なのですから。

僕は、劇中の作家の、だれかを言葉で救ってみたい、ということばが、のどのあたりにつかえて仕方ありません。なぜならば、あの作品を生み出した作家自身の言葉のように聞こえてくるからなのです。

以下に、江古田のガールズ公式ウェブサイトに記載の文章を引用します。

江古田のガールズはアーティスティックではありません。
アカデミックでもなければ、アヴァンギャルドでもありません。
私はイケメンでも、ボサボサした髪の毛でも、ダラダラした服装でもありません。
小難しい社会問題とか家族問題とか、やれ童貞だ、やれ神様だポップだ全力スマイルだ、私たちはそんなんはやりません。
変な身体表現も、妙なプロジェクションマッピングもやりません。
ツンツン尖がった、炎上万歳な表現? 糞喰らえです。
ラストシーンで爆音流して、ちょっと見た目がいいってだけの女優もどきがスキャンダラスな露骨な表現をする? くたばっちまえ、です。
「新しけりゃいい」なんて思ってはいません。
「新しい」「古い」は、「いい」「悪い」とは全然関係ないと思っています。

私たちは娯楽です。徹底的に娯楽です。
「楽しくなけりゃ意味がない」と、そう考えております。

僕個人の感想ですが、本当に本当に悲しくなりました。この言葉一つ一つが、胸に刺さってきます。それはきっと自分が、「アーティスティック」やら「神様だポップだ」やら「新しい」やらが好きだから、なのだと思います。

でも、そんな主宰の言葉が、あの『地獄』を通して鬼火のように僕の心を炙ってくるのです。死にたいのは寂しいからなんだろう?と。だったらワイワイしてみんなで一緒にいればいいじゃない、みんなもつらいよ?と。

謎の生きづらさを抱えている自分は、悔しくなりました。ああ、彼らは演劇をやって、舞台をつくって、幕切れとともに楽しい世界に消えていってしまうのか、と。観客の一人として座っている僕は、置いていかれて、この芝居をわからないやつは死ねばいい、と言われてる気さえしました。終演後の、観客の拍手でさえ、僕にはトドメの念仏のように聞こえました。ここにいるみんなは、楽しんだんだろうな。

さあ、こんな孤独を抱えて僕は、渋谷の街をどう帰ろう、とそんな風に悩みながら劇場を後にしました。

ごめんなさい

そうです。死にたい人はだいたい「ごめんなさい」と思ってると思います。人それぞれかとは思いますが。

というか、こんな風に書いてしまってごめんなさい。俳優の皆さんはすごく上手でした。小ネタもすごく面白かったです。

でも、電気の位置が高すぎましたよね。

あと、稲川淳二が劇中にも絡んできたらもっとよかったです。

生意気言ってごめんなさい。死にます。

ごめんなさい。

さようなら。

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