掛け声と時代
"平成"という時代が、今日で終わる、らしい。終わるよ、と言われて、どう応えよう。
あ、そうですか、おつかれさまでした。
とでも言おうか。
それが終わってどうなるんですか。
と疑問をつけて返そうか。
終わってほしいとも続いてほしいとも思っていなかったし、終わるというのを止めさせることはできないから、なにはともあれ終わるんですね、と言うしかないが、自分とは関係ないことのような気もする。
"平成"という時代になった1989年1月、ぼくは小学4年生だった。その2ヶ月後くらいに、ぼくの家族はいま実家のある場所に引っ越した。当時、そこにあった家はそれまでは、魚屋をやっていた祖母の週末の家だった。
引っ越すと同時に、ぼくは人生で一度だけになった"転校"を経験した(妹たちは入学前だったので経験していない)。
よくよく考えてみると、その"転校"の経験は、自分にはとても大きかったのではないか? と思えてきた(いま、これを書きながら急に思い始めた)。
それまでに住んでいたマンションと、それ以降住んだ家とは、車で移動すれば15分程度の距離だが、10歳の自分には大きな移動だったのではないか。
住む場所も変わり、通う学校も変わり、当然、先生も変わるし一緒に過ごす友達も100%変わる。当たり前かもしれないが、経験したことのない人(しかも子供だ)にはけっして当たり前のことではないだろう。
環境が変わる。すると、自分も変わらざるを得ない、とぼくは考えたのではないかと思う。その前後で、自分は変化した、という自覚がある。自らの意思で変わったと言ってもいいが、変わろう変わろうとして変わったというより、自然にそうなったと言う方がよい。
何が変わったのか。環境に対する態度というか、それに応じて生まれる自分の内容というか、自分の中にある感触というか。感触が変われば、行動も変わるから、その結果、目に見えるところもいろいろ変わる。
20代から30代の前半にかけて、住む場所も仕事も付き合う人たちも目まぐるしく変化する時代を過ごした自分の中にある、それに耐えた地盤は、その"転校"を機につくられたのではないか。
いま、"平成"の終わりと同時に、時代が変わるとか、ついでに憲法を変えようとかと言っている政治屋や評論屋やテレビ芸人が仰山いると聞いている。しかし、彼らはできれば何ひとつ(自分たちは)変わることなく、少なくとも自分たちが死ぬまではこれまで通りにやってゆけたらよいと思っていないか。そんな人たちも掛け声だけはやたらと威勢よく、「変わる」「変えよう」と叫んでいる。ちゃんちゃらおかしい。
掛け声なんかどうでもいいから、行動を変えなければいけない。
行動を変えるためには現実を引き受けなければならないし、まずそれを見て、観察して、認識しなければならない。
いま、この国は、政府の不正でその"認識"すらできなくなっていると聞く。
終わらされなければならないだろう時代は、まだ続く。
(つづく)
「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、4月30日。今日は、大きくなる恐竜の話。
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