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コミュニケーションで400字

今日は家から1歩も出なかった。こんな日は珍しい。いつ以来かわからない。今日は休みだと決めてもじっとはしていられない、落ち着きのない人なので…? でも寝て過ごしたわけではなく、朝早くから家でゴソゴソやっていた。午後は少し休みつつ、「これからの「国語科」の話をしよう!」というイベントの模様(動画)を見て(聞いて)いた(前編後編)。

いろんな論点がある。その、全てに、ぼくは大きな関心を持ってる。

危惧を覚えていると言った方がよいか。どうしてこんなしょうもない議論をしなきゃいけないんだろう? と思うところもある。とくに文科省、教育政策にたいしては。

今日は、「コミュニケーション」の話。

その動画に出てくる、ある参加者によると、1998年頃から「国語」は「読解」から「コミュニケーション」へと重心を変え始めていたらしい。

1998年といえば、ぼくは1浪して大学に入った年で、それからしばらく「入試」は関心から外れている。

そういえば、ぼくが大学を卒業して働き始めた頃か、いつ頃からか、「コミュニケーション能力」ということが言われるようになっていた。

「コミュニケーション」と「能力」をドッキングして、それが大事だと。

いまのぼくは、「コミュニケーション能力」と言われるたびに、胡散臭さを感じている。

でも20代の頃はそうでもなかったという気がする。

昨今の教育現場では、「主体的」「対話的」「探求型」が求められているという話も聞いた。

そんなことばからも、胡散臭さがプンプン匂っているのをぼくは感じるが、どう?

(「〜的」というのは文科省が好きな言い回しなのかもしれないが、それにしても…)

ぼくは人から「コミュニケーションが苦手で」「コミュニケーション能力がなくて」と言われるたびに、「コミュニケーションが得意だと言う人とあまり話したくない」と言ってきた。

「自分はコミュニケーションが得意」だと思っている人が、いるとしたら、その人は「コミュニケーション」についてあまり考えたことがないし、考えようと思ったこともないと告白しているように感じられる。

芸大・美大を目指す受験生たちを相手に「国語」の授業をこれまで7年、やってきて、1度だけ、「コミュニケーション」について書こうというのをやったことがあり、その時はぼくも書いた。

熟考して書いたものではないし、思いつきで、ささっと書いただけだが、読めばわかる通り、コミュニケーションということばをぼくは使いたくなかった。いまでも、あまり積極的に使いたいことばではない。

それは社会が、国が、率先してそのことばを乱用し、厄介な問題を巻き起こしていると感じるからだ(意図していたら見事な支配力ではないか)。

その時の文章を以下に載せて、今日はここまで。

「コミュニケーションで400字」

孤独を感じる時、自分はひとりである。自分はどこまでも自分でしかないということに気 づきもする。自分はこの世にふたつとないユニークな存在だ。同時に多くの人と同じ人間 のひとりでしかない。人の間と書くこの言葉が面白い。人は、人の間に存在している。人が自分の感じていることを、よくわかっているかというと、そんなことはない。人が「わかる」という時、多少なりとも言葉を必要とするからかもしれない。ひとりの人間の中には、さまざまな交流がある。自分というものの中にたくさんの他者がいる。またひとりの人間の背後には積み重ねてきた過去があり、その過去と未来がブレンドされた時間の流れ がある。人は複数の時間の流れを生きている。物理的に近くにあるものとの交流だけではない、遠くにあるもの、人、生き物、大地、空、星との交流もある。人は死者とも交流している。過去に愛した人をふと思い出すとき、相手も自分のことを感じている、とチェー ホフは書いた。その交信が芸術になる。

(つづく)

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