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ユーモアの正体は

ところで、少なくともこの10年、ぼくはいつも「これから、どうなるのだろう」という不安の中で暮らしてきたし、暮らしている。

仕事こそこの数年、ある程度は安定しているが(一気になくなることはないだろう)、少し先になくなってしまう可能性は常にあり、収入は(ここ横浜で暮らしていくうえでは)少なく、かつ不安定で。

でも悪いことばかりではない。

20代の頃は"会社暮らし"だった。あの頃は、週末や、祝日を目指して生きていた。だからそれが終わると暗く重たい気持ちになるのだった。

いまは、仕事の日、休みの日といったような境目がない暮らしで、いちいち暗くなったり明るくなったり、重くなったり軽くなったりしないから、これはとても楽だ。

楽ということは、これが自然なんだ。無理がない。

そのかわりに、「お金が払えなくて困る」ということは、よくある。ピンチというものは続くもので、また困る。支払いのことを考えると、気が遠くなる。

ま、しかし、払えるところから払うのだ、ということにしている。払えないものはどうしようもない。仕組みを知り、優先順位を決める。謝ってすむものは謝る(払わないという意味じゃないよ)。

こんな暮らしで、大事なのは、食事と、ユーモア、かな、と思う。

お腹がすくのと、笑いが絶えるのは、困る。それだけは何が何としても止めたい。

「何を笑うかで、その人格がわかる」

なんていう格言(?)があるらしい。

小林信彦に「ユーモアは定義できるか?」という文章があり、そこに出てくる。どうやら、定義はできない(難しい)らしい。「おかしさ」に定義づけはできない、と。ひとりひとり違うし、時代の影響を受けもするだろう(ぼくは世代論は信用できないと思っているが、世代差もなくはないだろう)。

笑いたい時に、笑うのだ、という気も、ぼくはしている。どう頑張っても笑えない、という時は、あるのではないか。

逆に、とりあえず笑っていれば、次第におかしくなる、というのもあるなぁ。

笑い転げている人を、見続けてごらん。きっと、そのうち意味もなくおかしくなってくるから。

ただひたすら男女の笑い声が聞こえていて、何か吹奏楽器を演奏しようとしているのだけれど、笑いすぎて全然吹けない、という昔のレコードがある。

だから本当の本当にきついときは、とりあえず笑って、ゲラゲラやっているという手もあるゾ、と覚えておこう。無理かもしれないけど。

ぼくの高校の時のある友人は、たまーに会うと、高校時代(20年以上前だ)と変わらないことを言って、ふたりでケラケラ笑う。何がそんなにおかしいのかよくわからないが、なんだかバカバカしい。バカバカしい話をしているわけではないのだが、バカバカしい。

ユーモアにも、繰り返しが大事なのかもしれない。どうでもいいことでも繰り返し言っていればおかしくなる。どうだろう。

(つづく)

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