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オトナのためなのか? 文章教室(in 横浜、2019年10月31日)

11月になった。

ぼくにとって今年は、元旦から「新たな挑戦の年」になることは見えていた。個人的にずっと闘って(?)きたので、8月末には「なぁ〜んだ。まだ今年は4ヶ月もあるのか!」と思った。しかし一転して、9月末には「おいおい、もう3ヶ月しかないんだね?」と思った。そんなふうにここでも書いたと思うが、果たして10月末にはどうなったのかというと、「おっ。まだ今年はあと2ヶ月あるな」だった。

1月に止めた(ひと休みすることにした)オトナのための文章教室を夏に三鷹で再開したのは、以前の参加者たちから「やってほしい」という声があったから、だった。

しかし再開して、横浜でもやろうと声がかかることは予想していなかった。声がかかった、ということは、やれ、ということだと思って、昨日の夜から始めた。

チラシ

横浜はいまの自分にとって地元だ。しかし横浜はただ"住んでる"だけの場所で、「文章教室」をやるのに何のアテもない。風雷社中の協力が得られたと言っても、風雷社中は大田区の法人だから、その意味で(?)はあまり期待するのも悪い。1人でやるより、もう1人呼ぼう! と思いついて、とうやまりょうこさんに声をかけた。

とうやまさんとは7年くらい前に連絡をいただいてからの付き合いで、2013年の1月に、アフリカキカクが主催となって初めて開催した"ちいさな語り合いの場"(イベントと呼ぶよりそう呼んだ方がしっくりくる)「"いま、プライベート・プレスをつくる"ということ」をやった時に、声をかけて、一緒に話してもらった。とうやまさんも長く、個人で雑誌づくりをやってきていて、執筆も続けていて、もともと文芸の畑の人(?)という共通点もあった。

昨夜は、"「わからない!」を書く"というテーマ(のようなもの)をいちおう設定してはいたものの、いちおう何か書いているのはぼくだけで、ほとんどの時間は、「これから書きたい」という人にむけた"導入"の時間になった。

どうなるのか、ぼくもわからないし、参加する人もわからないし、とにかく白紙の状態から始めよう、というわけだ。

編集者がついているわけでもなく、1人で、長く書き続けているというのは、ぼくは誰にでもできることだとは思っていないので、そういう意味では、話し相手としてとうやまさんは適任者だったのではないかと思う。

なぜ書こうと思うのか。どうやって書いているのか。書いたものをどうやって人に届けるのか。どんなことが考えられるか、可能な限り挙げて、検討するような話を昨夜は展開した。

方法はひとつではなく、きっと、書く人それぞれが探して、見つけなければならないことだ。だから、ぼくは"書き方"を教える文章教室に全く興味がない(有名な作家がやってますと謳えばウタウほどうさん臭い。そんな「教室」に参加してもろくなものは書けない)。

しかし、書いてゆくうえでどんな読者と出合うか、ということはとても大事なことなんだ。──という実感がぼくにはあるし、とうやまさんにもあるらしい。

(ぼくはここ(note)で書いているような文章は、原稿を書いているという感じでやっていない、どちらかというと"お喋りをしている"感じだ、という話もした。)

以前の「文章教室」では「文章を書くのが上手くなりたい」という声がけっこうあった。とうやまさんに「書くことが上手くなるにはどうすればいいと思います?」と聞いたら、「よく読むこと。たくさん書くこと。書いたものを読んでもらって、ボロクソに言われることかな、笑」と言っていた。

読んでもらうこと、何か言ってもらうこと、は大切なのかも。しかしぼくがやっている「オトナのための文章教室」では、「ボロクソに言う」ようなことはしていないし、参加者どうしでそうなることも、まだない。

ある意味では"放任主義"(好きなように書けばよろしい)だが、それは別の意味では厳しい姿勢で、自分の思うやり方だけに固執する人を批判して議論したりはしないので(そういう時間もない)、求めたら求めただけのものが得られるし、求めなければぼくが準備してゆくだけのものしかないわけだ(それだけでもけっこうイロイロありますから、読んでいただければ面白いと思いますけど)。

「作家を育てる場」にする気はないので、いろいろな人が来てほしいし、そうなると目指すところは様々だ。作家になろうという人が来ても面白いところはあると思うし、すでに作家である人が来ても面白いので、つまりそういうことは関係がない。

ただ、ただ、"書く場"にしよう。

「文章教室」は同人雑誌などではないので、発表することを目的にすらしていない。より自由だ。

発表したい気になったら、『アフリカ』の編集者に送ればいいし(それもぼくで「文章教室」をやってる人と同じ人なのだが)、自分で媒体をつくってもいい。方法は幾らでもある。

何も教えないのか? と言うと、教えようと思えば幾らでも教えられる。

書かれたものを読んで、どんなふうなことを感じ、考えているのか? 同じことを書くのにも、無数の"書き方"がある。そんなことなら、幾らでも教えられる。そういったことの中には、知らなければわかりようもないこともある。ただ、「では、どうする?」というのは、書く人自身で試行錯誤してやってもらうしかない。

とりあえず書いてみよう、だ。

しかしどこに向けて書くのか。「文章教室」に向けて書く、というのも、ひとつ。

ぼくには、依頼を受けて書くもの、自分の営んでいる媒体にむけて書くもの、そういうアテはないが作品として書くもの、noteなどのSNSで書くもの、などなど、イロイロあるが、誰も読者がいない「朝のノート(モーニング・ページ)」もあるんだ、という話もした。

「上手になるには?」の続きで、参加者からは、たとえば「読むものは、文芸作品とか、何か良質はものを読んだ方がよい?」という質問が出た。とうやまさんは「何でもいいと思う。フリーペーパーの隅っこに載ってるようなちょっとした文章でも、だいたい上手」と言っていた。

ぼくもそう思う。上手な文章なら、そのへんに溢れてる。極端なことを言うと、上手な文章は(書こうと思えば)誰にでも書ける。

「オトナのための文章教室」で、ぼくは「上手な文章を書く人を育てたい」と思っていない。

そこでは、その人が書きたいものを書けばいいし、もっと言うと、その人にしか書けない何かを見つけてほしい。

それは初めからわかっているものではない(かもしれない)。何が書きたいのか、何がしたいのか、自分でどこまでわかっているのか、ぼくにはわからない。ただし、文章は、あくまでもことばの”芸術"なので、ことばの表現を学び、育ててゆく中で、見つかるものはきっとたくさんある。

横浜での次回は11/17(日)14時〜。三鷹での次回は11/23(土)14時30分〜。毎回参加といった縛りはないし、とりあえず1回、と様子見で参加されるのも歓迎しているので、興味ある方はぜひ来てください。

ぼくも自分の仕事が忙しくなっているし、「文章教室」は、ほんとうに、ぼちぼち、ノンビリやってます。

そうそう、「オトナのため」なのか? 自分はオトナだ! と思っている方なら何歳でもOK。100歳でもコドモだと思ってる方はご遠慮ください。

(つづく)

そのオトナのための文章教室、11月のスケジュールを更新しています。ぜひご覧ください。

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、11月1日。今日は、先日の横浜らいず「丘の上のマルシェ」で話題沸騰? 大好評だった「ひなた工房」の粘土細工の新作「どんぐりホルダー」のこと。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝(日本時間の)に更新しています。

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