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オトナのための文章教室③

「オトナのための文章教室」、第3回は「風景を書く」。

体調を崩して休まれる方もいましたが、5人参加。顔を付き合わせて読んだり話したりするには、いい人数です。

風景を書く。──人も生き物で、自然の中に生きていて、と考えてゆくと、「風景」の中にはありとあらゆるものがある、という気がする。

そう言うと、周りには人工のものばかりで自然なんかないじゃないかと思われる方もいらっしゃるかもしれないけれど、これを書いているいま、透き通るような青空が見えていて、吹いている風も、生きている私も自然の産物で、「風景」を「自然」「空間」「時間」と言いかえてみると、感じられやすいかなぁ。

参加者の皆さんが書いてこられた文章は、とてもバラエティに富んだもので、それぞれがいま「書く」ことへ向かっている姿勢が、よく現れたものになっていて、思わず嬉しくなりました。

まだ起き出す前の、寝室の中にいながらにして感じる朝の情景。旅に出る、寝台列車の中の光景。海へ潜って感じられる小さな手応え。幼い頃、深刻な病で入院した病棟を抜け出して見た、満天の星と、海のランドスケープ。通勤の、満員電車の中で観察する人びとの風景(人物スケッチから見えてくる眺めというか)。こどもの頃、おばあちゃんちで見た雪国の「闇」の見え方。じつにさまざまな文章が集まりました。

私は昨年末につくった小冊子『三つの冬の旅』に収録した「道草氏の生活と意見[第一稿]」から書き継いでいる、あの「家」の二階から見えている「定点観測」を書きました。移動をしながら、たとえば歩きながら風景を描写するより、ある一点からの眺めを書くほうが、難しいような気がしていて、あえて難しいことをやろうという気持ちで書いていました。なるだけ素直になって書こうとしたら、ひとつの風景の中にも、たくさんの時間が出てきます。

風景を書くということは、場所を書くということ、そして時間を書くということ、とか、いろいろ言えそうだという話になりました。

絵で、風景画を描くときには、時間は止まっているのかもしれないが…という話をする方がいて、いや、風景画を描いていて時間は止まらないよ、写真なら止まっているかもしれないが…という反論があり、いや、写真でも時間は止まってないよ、とまた反論する人がいたりして…(笑)

もし時間を、止められたら、いいような、わるいような、ですね。

「風景」を書くのに、「聴覚」を頼りにして書いているような原稿があったのは、ちょっとした驚きでした。視覚も、聴覚も、そうはっきりとわけて考えられるものではないのかもしれません。

次回は「味覚」と「嗅覚」をテーマにしよう、という話になりました。「嗅」ってどう書く? あ、「味」にも「嗅」にも、「口」がつきますよね、わけて考えず、一緒にやろうということで、題して…

味覚と嗅覚をとぎすませ!

と、まぁそういうわけで、「味覚と嗅覚をとぎすま」せば、あとはどんな内容でもよいので、何か短いものでも書いて、ご持参ください。

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ところで、「オトナのための文章教室」は、いつも私から「オマケ」の文章があるのですが、今回は石牟礼道子さんの追悼で、文芸文庫の『妣(はは)たちの国』から「気配たちの賑わい」を、朗読しました。私は故郷・鹿児島のことばを話すことができない(普段は)と思い込んでいたのですが…

石牟礼さんのこの文章に、引きずり出されました。最初は偶然か…と思いましたが、何度読んでも私のからだの中に、あの、ことばが鳴ってる。私の母方のルーツは大口にあり、(石牟礼さんのいた)水俣にはすごく近いんです。10数年前に祖母(母の母)が亡くなり、あの声は失われた…と思っていたのですが、蘇ってきました。

こんなに嬉しいことはありません。ことばというものが、どんなものか、ようやくほんの少しだけ、わかった気がしました(いや、気がするくらいなものですが)。今回、読ませてもらった中には、方言の気配が濃厚な文章もあり、ただの偶然のようには思えなかった。次回もまた楽しみです。

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