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「共同で 暇つぶしをする 部屋」のこと〜2019年のTURNフェス

今日は仕事で、障害のあるEさんと、1年前にも行った「TURNフェス」へ出かけた。

考えてみれば、ほんとうに多種多様な"障害"がある。

ぼくは自分が幼い頃からの吃音者だと少し前にここ(note)でも書いたが、それも文字通りの障害になる。吃音者が皆、自分を障害者だと思っていると言いたいわけではない。社会の中で、"話す"ということをめぐって、あちこちで障害が立ち上がってくるというわけだ。

「TURN」のT、U、R、Nがそれぞれ何だったか、ぼくは忘れてしまったが、「障害の有無、世代、性、国籍、住環境などの背景や習慣の違いを超えた多様な人々の出会いによる相互作用を、表現として生み出すアートプロジェクト」だそうだ。わかったような、わからないような気持ちで、障害のある人と毎年、可能な限り訪れるようにしている。

ただ、いまぼくのかかわっている"知的障害"の人たちだと、当人たちに「障害」の意識があるかないか、けっこうアヤシイ。

吃音の場合、他人から見て全然どもってないように見えるが、当人はたいへん困っているということがよくあるし、他人から見たらどもりどもり話していて大変苦しそうだが、当人は全然悩んでないということも逆にあると聞く(聞く、というのは、そういう人は「困っている人たちが集う場」には来ないからだ)。

たとえば目が見えなくても、それを全く苦にしていなかったら、それは"障害"ではないんだろう。しかし、目が見えないことで感じられなかったことを、こうすれば感じられますよ? と提案して、見える人、見えない人の間に新たな地平を築いてゆくことはできそうだ。

(こういうふうに書くと、何だか、ジャングルの奥で暮らしている先住民にスマホを持って行って、これがあれば…? と言ってるような気もしなくはなくて複雑な思いも浮かんでくるが、今日はそんな話を書きたいのではないので、先へ進もう。)

しかし知的障害の人、たとえば今日ぼくが一緒にいたEさんは、まずことばでのコミュニケーションがない(ないと思われてるだろう。ぼくは100%ないとは思っていないが…)

自分が障害者だという意識があるかないか、確認する術がそもそもないわけ。そんなことには興味がないと言われているような気すらぼくはしてる。清々しいほどだ。

そういう人に、「ここではこんなワークショップをやってます。説明しましょうか?」と言われても、ぼくはその説明を聞けるが、彼は聞けない。というか、彼には、それを聞くという概念がそもそもないだろう。

それに、それを聞けなければならないとも言えないだろう。ぼくには、彼と一緒にいるおかげで、そこを素通りできてホッとする気持ちもあるのだ。というのは…

ぼくは、何となくだが、そういった「ワークショップ」の場に行って、あらかじめ用意されたものに付き合うことに、飽きている。

が、今日はあるところで、Eさんが急に座り込んでしまった。ちなみに、街中で座り込むことはあるが、今日の場合は明らかに、そこが「座り込んでいい場所」だとわかって(感じて)座り込んだのである。これには驚いた。

そこは、富塚絵美さんというアーティストが営んでる、「共同で 暇つぶしをする 部屋」だった。

そこで(ぼくの以前の仕事を知っている人には)思い出してほしい。ぼくが「ぼーっとするワークショップ」やりたいな、と言っていたことを。

まさにそこは、「ぼーっとするワークショップ」だった。そのことには帰宅途中で先ほど気づいた。だから、会場で富塚さんにその話をできなかったことはちょっと残念だ。

富塚さんや、その場にいたスタッフ、関係者に声をかけてもらって、Eさんは自由気ままに手を叩いたり、床を叩いたり、寝転がって笑ったり、していた。

いい時間だった。

「何もしなくていい」ということの豊かさ、いや、「何もしてない」わけではないのだが、期待される何かをすることのない空間の豊かさをしみじみと感じた。それはEさんにもしっかり伝わっていると感じた。

ぼくが「ぼーっとするワークショップ」をやりたいと言っても、ほとんどの人はまた下窪サンが面白い冗談を言っているとしか思ってないような反応を示していた。それを坦々とやっているアーティストがいたことに、ぼくは励ましに近いものを感じた。

ちなみに、「共同で 暇つぶしをする 部屋」には、さりげないが、いろんな仕掛けがあった。

たとえばその「部屋」の入り口にあるこの窓から、その「部屋」の中が見える。

ぼくもその「部屋」に入る前に、覗き込んでしまったのだが、普通、こうやって額縁があって、「絵」を覗き込む人は、観る側である。しかし、この作品はそこを逆転させる。額縁の向こうは、その「共同で 暇つぶしをする 部屋」である。その「部屋」は、薄暗がりの中にある。つまり額縁のこちら側にいる人のいる場所の方が明るいのである。何が言いたいか? つまり、額縁をいくら覗き込んでも薄暗い「部屋」の様子が伺えるだけだが、「部屋」の中にいる人には、覗き込んでいる人の顔がクッキリと観察できるのである。

なに? この、「暇つぶし」礼賛は? ぼくはものすごく久しぶりに、"アート"というものがもつ無限の力を感じた。

(つづく)

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